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第7回『織田信長文書』を読み解く 

今回は花押です。

花押はまあ今でいうサインですね。
信長は永禄八年(1565)に花押を変えています。麟(麒麟キリンの麟)の字です。
これはこの年五月に時の将軍足利義輝が暗殺されたことが原因とされています。
政治的衝撃→花押の変化は分かるんですが、どうして麟の字なのか深く考えていませんでした。
これは麒麟という中国の想像上の動物、そこにあります。
麒麟は至治の世にしか現れないとされます。
信長は麟を花押にすることで、至治を目指す意志を示したと言えます。
これは天下布武の朱印、岐阜の改名に連なるものだったのです。
2017.02.01 Wed 23:20
カテゴリ: 講座・講演
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第3回三国志徒然列伝 呉夫人 

久しぶりの三国志徒然列伝です(大汗)。

今回は呉夫人について。
孫堅の奥さんで、孫策・孫権らの母親にあたります。
呉の生まれでのちに銭唐の地に移ります。早くに父母を亡くし、弟の呉景と暮らしていました。
孫堅伝には、孫堅の武勇伝として十七歳の時の海賊退治の話があります。
父親とともに船で向かっていたのがこの銭唐でした。
孫堅は才色兼備で名高い呉夫人に求婚しますが、風聞悪い孫堅を親戚が嫌い、断ろうとします。これに孫堅は怒りますが、呉夫人は女一人のことで恨みを買う必要はない、と求婚を受け入れます。
そして四男一女を生むことになります。
伝では建安七年(202)に亡くなるのですが、建安十二年に亡くなったと注を書いた裴松之は断言しています。
ちなみに孫堅が初平四年(193)に37歳で亡くなったとあるので、同年代と考えて50歳前後で亡くなったのかなと思います。

呉夫人の逸話として、孫策への諫言があります。
孫策が江南を制覇した頃、魏謄という家臣が孫策の気持ちに逆らったため処刑されかけます。他の者たちは心配しますが、恐れてなにもできずにいました。
その話を聞いた呉夫人は井戸の縁に身を置くと、
「江南の経営を始めたばかりで人物を礼遇しなければならない。それなのに職務に励む魏謄殿を殺せば、明日には皆が背を向けることになる。禍がお前に降りかかるのは見たくない。その前に井戸に身を投げる」
と、まあ脅迫したわけです(笑)。
これは小覇王と呼ばれた孫策も勝てず、魏謄を釈放しました。
孫策亡き後、若くして継いだ孫権にも、助言をし、その益は大きかったとあります。少しきになるのは、行政はともかく軍事にも助言したとあることです。さて、これは?

次回は、呉夫人の弟の呉景について。この人とその子孫の話は、まあ、あれですね。
2017.01.20 Fri 00:10
カテゴリ: 三国志
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謹賀新年2017 

明けましておめでとうございます。

今年は積読本をなんとか消化したいと思っています。
古本祭のたびに10冊15冊と増えるのに減るのは・・・。
2017.01.01 Sun 21:31
カテゴリ: 雑記
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第6回『織田信長文書』を読み解く 

文書となると、やはり外交文書が一番の好物になります。

今回の題は、小牧山移転と上杉輝虎との交渉。後者の話に目がいきます(笑)。
織田信長の文書ではなく、上杉輝虎(謙信)の書状から。
永禄七年七月二日付河上伊豆守・同中務少補宛上杉輝虎書状
「本文省略
 追而織田信長江為音信使僧差遣候、路次中無相違様馳走頼入候、以上
宛名の河上伊豆守らは飛騨の大名恵麻輝盛の家臣です。
ちなみに本文は以前の事での礼を述べています。
この文章から分かることは、上杉と織田との連絡路として飛騨が選ばれていることです。
永禄七年(1564)では、まだ三国同盟が健在ですから南はすべて敵、西も越中影響力を及ぼしているもののゴタゴタしています。となると、勢力範囲の東越中から飛騨、美濃へと抜ける道が一番になります。逆に、信長は美濃とは戦争中なので友好関係の武田氏の信濃を通っていたのかな、とも思います。
使者がどのような道を通ったかを考えると、当時の道の物理的状況だけでなく政治的状況も見えてきて楽しいものです。
2016.12.27 Tue 00:02
カテゴリ: 講座・講演
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第5回『織田信長文書』を読み解く 

11月末から忙しくなっています。師走はやはり師走です(汗)。

信長の尾張時代の文書は、どうしても戦争や外交というよりコマゴマな文書がメインとなります。
となると、どうしても地味ーになります。
今回はこれだと書くことがありませんでした(大汗)。

2016.12.11 Sun 23:00
カテゴリ: 講座・講演
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