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謹賀新年2017 

明けましておめでとうございます。

今年は積読本をなんとか消化したいと思っています。
古本祭のたびに10冊15冊と増えるのに減るのは・・・。
2017.01.01 Sun 21:31
カテゴリ: 雑記
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第6回『織田信長文書』を読み解く 

文書となると、やはり外交文書が一番の好物になります。

今回の題は、小牧山移転と上杉輝虎との交渉。後者の話に目がいきます(笑)。
織田信長の文書ではなく、上杉輝虎(謙信)の書状から。
永禄七年七月二日付河上伊豆守・同中務少補宛上杉輝虎書状
「本文省略
 追而織田信長江為音信使僧差遣候、路次中無相違様馳走頼入候、以上
宛名の河上伊豆守らは飛騨の大名恵麻輝盛の家臣です。
ちなみに本文は以前の事での礼を述べています。
この文章から分かることは、上杉と織田との連絡路として飛騨が選ばれていることです。
永禄七年(1564)では、まだ三国同盟が健在ですから南はすべて敵、西も越中影響力を及ぼしているもののゴタゴタしています。となると、勢力範囲の東越中から飛騨、美濃へと抜ける道が一番になります。逆に、信長は美濃とは戦争中なので友好関係の武田氏の信濃を通っていたのかな、とも思います。
使者がどのような道を通ったかを考えると、当時の道の物理的状況だけでなく政治的状況も見えてきて楽しいものです。
2016.12.27 Tue 00:02
カテゴリ: 講座・講演
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第5回『織田信長文書』を読み解く 

11月末から忙しくなっています。師走はやはり師走です(汗)。

信長の尾張時代の文書は、どうしても戦争や外交というよりコマゴマな文書がメインとなります。
となると、どうしても地味ーになります。
今回はこれだと書くことがありませんでした(大汗)。

2016.12.11 Sun 23:00
カテゴリ: 講座・講演
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第4回『織田信長文書』を読み解く 

書いたつもりでいた先月の講座の話です(汗)。
したつもりでしなかったことが他にもあり、汗をかく機会が多い今日この頃です。

今回は永禄二年の信長の上洛、そして桶狭間の戦いがメインです。
とはいえ、両者ともに信長公記の講座でダブる話なのが悲しいところ(笑)。
桶狭間については第4回続編、上洛については第5回にそれぞれ詳しく書いてます。

今回講座を受けていて思ったことは、少数で大軍を破り、しかも今川義元の首を取ったわりには信長は戦果を誇示していないな。
これだけの起死回生の大戦果をあげれば、隣国諸方に書状をばらまきたくなると思うのですが、どうなのでしょうか。
のちに越前一向一揆を撃破した際や長篠の戦いで武田軍を破った時には、鼻高々な書状を送っていたのに。憎悪の敵だからなのか、単に書状を書かないといけない距離があるからなのか、さて。どうしてでしょう?
2016.11.16 Wed 20:54
カテゴリ: 講座・講演
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第2回三国志徒然列伝 董卓2 

今回は董卓の続きです。
前回長々と書いたので今回は短いのをと思っていたら、董卓とその周辺について書きたくなりました。

さて董卓は初平三年(192)に王允・呂布によって暗殺され、董卓が本拠とした長安近郊の郿でその一族は殺されました。
この時、董卓は何歳だったか?
生年がわかっていないため、正確な齢は不明です。
皮肉にも董卓の近親者で齢が書かれている人がいます。
一人は董卓の老母で、郿で殺された時に90才。当時にあって凄い長寿です。また董卓の孫娘(董白)が15になっていないのに領地を与えられたとあります。
老母が90才なら、董卓は70前後と思われます。ざっと60から75といったところでしょうか。
脂ぎった太った中年男というイメージとかけ離れています。老境も老境の人物です。
とはいえ、また別のエピソードから枯れた老人とも思えません。
董卓の横暴に反感を抱いた伍孚という人物が、刃物を隠し、董卓と会談しました。会談後、門まで見送りに出た董卓を刺すのですが、剛力の董卓はうしろにさがって刃物を抜いたというのです。董卓は伍孚を難詰し、これに伍孚は董卓を弾劾、殺されます。
このエピソードから分かるのは二つ。
刺されてもぴんぴんしている董卓の強さ、そしてわざわざ伍孚を門にまで見送りにでているところです。残酷な面ばかりが強調されているにしては礼儀があるというか・・・。

董卓の周辺の人物を紹介すると、先述の老母と孫娘董白。
董卓は三兄弟の二男で、長男は若くに亡くなっています。弟は董旻(トウビン)といい左将軍になり、また兄の子董璜(トウコウ)は侍中・中軍校尉に、女婿の牛輔は中朗将となっています。
弟・甥・女婿はいても、董卓には息子はいなかったようです。ただ側室にまだ歩けない赤子がいたとあるので、もしかしたらそれが董卓にとっての男子かもしれません。
董旻・董璜らは郿において、彼らの家族もろとも殺されましたが、出征していた牛輔だけは難を逃れました。
この時、牛輔は陝に駐屯していました。
陝という場所は、洛陽の南南東50kmほど、豫州潁川郡に入ったあたりにあります。
牛輔は陝から李催・郭汜・張済らを派遣して、豫州潁川・隣の兗州陳留の諸県の攻略をしていました。
董卓を倒した王允・呂布は、牛輔を討伐しようとしますが失敗。しかし、牛輔は軍勢の混乱を制御しきれず、逃げ出し、部下に裏切られて殺されます。ここに董卓の縁戚一族は表舞台から消えます。代わって李催・郭汜が出てくるわけです。

それにしても、初平元年(190)に長安遷都後、董卓の勢力は完全に長安に引きこもっていたと思っていましたが、なんと反撃に出ていたのには驚きました。
董卓暗殺がなかった場合、私たちの知っている群雄割拠の戦いもどうなっていたか。
豫州・兗州の西部、荊州北部に董卓の勢力が進出した場合、曹操の台頭、袁術と劉表の対立、孫堅の死、袁術の没落(寿春への逃亡)などガラリと変わるはずです。

うーん、想像が膨らみます(笑)。
2016.10.28 Fri 00:00
カテゴリ: 三国志
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