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第3回「織田信長文書」を読み解く 

今回の題目は、弟信勝との抗争とその死、ですが、びびっとこず(汗)。
次回が桶狭間の戦いなので、嵐の前の静けさといったところ。

講座の内容とはちょっと違うんですが、信長の若い頃の話の史料として定光寺誌というものがあるのですが、
これはどこのお寺なのか気になってます。ちょこちょこ名前が出ていたので。
定光寺誌に限らず、引用元になる多くの一次史料二次史料の紹介本なんてあったら、面白いと思いました。
2016.10.06 Thu 21:20
カテゴリ: 講座・講演
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第2回「織田信長文書」を読み解く 

桶狭間の話題以外は、どうしても信長の尾張時代は地味になってしまいます。

今回はその中では有名な上総守です。
信長は上総守と名乗ったのですが、上総(現在の千葉県)は親王任国と呼ばれる特殊な国で、守はありません。
各国の官の順位は、守・介・掾・判で親王が守となる以上、下の者が同じ地位につくことは憚れるということで守はなく、介が一番えらい地位になります。ちなみにこのような親王任国は上総のほかに常陸と上野があります。

親王任国の始まりは、淳和天皇という子沢山の天皇からです。
子が大きくなれば、食い扶持が必要になります。朝廷の官につけて食い扶持を与えるのが基本ですが、それでは足らず仕方なく淳和天皇一代に限り三ヶ国を親王の食い扶持に充てることになったのです。
ところがこの制度は百五十年続き、結果、三ヶ国の守は名乗られることがなくなったわけです。

子沢山が信長の小さなミスを生んだわけです(笑)。
2016.09.06 Tue 01:03
カテゴリ: 講座・講演
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第1回「織田信長文書」を読み解く 

さて今回から再び信長に戻っての講座になります。
信長公記メインの話だった講座と色を変えて、文書メインとなります。

とはいえ第1回は尾張在国時代の最初の最初とあって、こう興味津々となるものはなかったです(汗)。
信長公記と被る部分があると思うので、文書メインでどう特色がでてくるのか、これから楽しみです。

2016.08.02 Tue 21:23
カテゴリ: 講座・講演
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第18回『天正記』を読む 

書きたいことは多々あれど、暑さで気力がでない今日この頃です。

さて、今回は天正記を読むの最終回、といっても天正記についてではなく、石谷家文書についてです。
以前にも書いた気がしますが、この石谷家文書で本能寺の変の真実が明らかになったわけではないんですね。ただし、本能寺の変以上に大きな影響を与えたのが、軍記物である南海通記への評価です。

南海通記は四国の戦国時代について江戸時代に書かれたものです。
四国の戦国大名はことごとく没落したため、一次史料が少なく、歴史研究は後世の軍記物に頼らざるをえない状況にありました。とはいえ、軍記物の信頼度は低く見られていました。
軍記物の記述を使うには、ほかの史料と比べて信用できるかどうか確認しなければなりません。
ここで問題となるのが、軍記物のみの記述の場合です。
南海通記には、天正十年正月に信長と長宗我部元親のやりとりがあったとあります。しかし、これがほかの史料にはない。
ところが、今回の石谷家文書でこの記述が裏付けられます。
後世の軍記物だけにあった記述が、です。
これによって南海通記の記述に対する信用度が上がったわけです。
かといってほかの部分まで素直に信用できるかといえば、それはまた別の話。
なんとも難しい話です(汗)。

2016.07.05 Tue 23:04
カテゴリ: 講座・講演
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第17『天正記』を読む 

今回は九州攻めについてです。

九州攻めは秀吉の圧勝というイメージだったのですが、圧勝の下は薄氷だったようです。
フロイス日本史によれば、
時あたかも七月にあたり、日本では暑気厳しい折で、降り続く雨のために(全軍は)幾日もそこに為すすべもなく膠着状態に陥り、兵士の中には病人が続出し、いっぽうこうした悪天候で五畿内からの食糧の海上輸送は困難となって、餓死者が連日後を断たぬ有様であった。(中略)彼らは大いなる飢餓と苦難に陥っていたから、絶望のあまり暴動ないし謀反を起すことが案ぜられたのである。後刻、我らが確実に知ったところによると、もしも薩摩の国主が、あと五日間、関白の許に赴くのを遅らせていたならば、関白は軍勢を撤退させ、(自らは)馬を馳せて帰ったであろうし、彼の面目は丸つぶれとなり、その名は信用を失墜し、敵の手であらゆる橋は破壊され、(撤退に際し)少なからぬ危険に曝されたことであろう
とあります。
秀吉は大軍で攻めたがゆえに、その兵粮事情がひっ迫するとその影響は大となったようです。
あと五日、島津の降伏が遅ければ撤退の事態になるほどとは。
大軍の長距離遠征が兵粮事情のひっ迫で無残な失敗に終わることは、歴史にたくさん事例がありますが、この九州攻めがその一例になりかねないところにあったのは、意外でした。

あと島津貴久の肖像を見ていて気になったのですが、あの肖像画って中国の影響なんですかね。
椅子?に座っている肖像画はめずらしいと思うので。
2016.05.30 Mon 22:35
カテゴリ: 講座・講演
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