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「信長公記を読み解く」第17回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回は、小谷城封じ込めと異見十七カ条についてです。

今回の自分のポイントは、将軍足利義昭の動きについてです。
元亀三年(1572)八月頃、義昭が本願寺と信長の和睦について武田信玄に仲介を頼んでいたとのこと。
本願寺文書に、本願寺の坊官下間頼充宛信玄書状(八月十三日)があります。
従京都被下御両使、貴寺(本願寺)・信長和睦、信玄中媒尤之趣、御下知候、~以下略~」
京都(義昭)からの使者がきて、本願寺と信長の仲介を命じられたとあります。
信玄と本願寺法主顕如は、京都の公家三条氏の娘を妻とする相婿です。
義昭はこの関係を利用して信玄に仲介を頼んだのでしょう。
では、これに対し、本願寺はどう返答したのか。
顕如上人御書札案留の法性院(信玄)宛顕如書状案(九月十日)
就信長、當寺和平之儀、為武家被下置御使者、信玄可有入魂趣、被仰出由候、對信長遺恨深重候、雖然貴邉之儀不可有贔屓偏頗之御調略候之条、~以下略~」
本願寺にも武家(将軍)から使者が来ていること、信長に対して恨みはあるが、信玄ならば贔屓のない仲介をしてくれるだろう、と応諾の意志をみせています。
信長と本願寺との和平を成立させることで義昭は将軍の権威を高めようとした、との桐野氏のご意見に自分は講座中は無反応気味でした(汗)。
あとで思い出したのが、こういった和平斡旋を義昭兄の義輝が行っていたことです。義輝は、大名間の和平に将軍が積極的に関わることで将軍権威の復権を狙っていました。
義昭は兄義輝にならい、和平斡旋を行おうとしていたのだ、と気付いた時にようやく、なるほど!となりました。
また顕如の書状案にある贔屓偏頗の文字にも違和感を感じていました。
なんで信玄が信長を贔屓するのか、と。
しかし、こちらもよくよく思い返すと、信長嫡男奇妙丸(信忠)と信玄五女松姫とは婚約関係にあります。
この婚約関係はこの後に破れますが、この段階ではまだ生きています。つまり本願寺・信長ともに信玄は親戚筋に当たるわけです。
こうなると顕如の贔屓偏頗の言葉も納得でき、義昭が本願寺・信長の仲介役に信玄を選んだのも理解できます。

ただし、この和平斡旋に信長は噛んでおらず、義昭の単独行動です。
桐野氏は、この義昭の行動が異見十七カ条につながり、信玄の西上の名分になったのでは、とのご意見でした。

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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.11.27 Sat 22:37
カテゴリ: 講座・講演
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