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「信長公記を読み解く」第16回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回は、『比叡山焼き討ちと明智光秀』です。

比叡山焼き討ちや光秀の加担云々よりも、驚きと納得な話がありました。
それは、光秀が義昭に仕えるのをやめていたのではないか、ということです。

日付不詳の曽我兵庫頭宛光秀書状には、
~中略~、就其我等進退之儀、御暇申上候處、種々御懇志之儀共、過分忝存候、~中略~
とあります。本当は全文を載せたいのですが、ひらがな部分が読めません(涙)。
内容としては、光秀が義昭と衝突し、御暇、仕官をやめると言い出し、義昭の側近・曽我兵庫頭にその口添えを頼むというものです。
そして元亀二年十二月廿日付けの同じく曽我兵庫頭宛光秀書状では、その口添えの礼と思われる内容があります。
下京壺底分地子銭、両季二貮拾壹貫貮百文為合力進之候、公儀御取成以下頼入候付而如此候、~中略~
下京の地子銭二十一貫余りを渡しています。
お礼をしている以上、曽我兵庫頭の口添えは成功したのでしょう。つまり元亀二年十二月段階で光秀は、従来のいわゆる両属の立場から完全に信長の家臣になった、ということです。

この話を聞き、なるほどと思ったことがあります。
それは後年、義昭が反信長の挙兵を起こした時の信長公記の記述で、細川藤孝と荒木村重が信長に忠誠を誓い、信長がこれを喜んだ、とあるところです。
その時の光秀は、義昭方の拠点を攻めているのですが、どうしてここに光秀の去就について書かれていないのか、が疑問でした。
その疑問も、すでに元亀二年末の段階で光秀が織田家家臣となっていたのであれば、義昭挙兵時の記述も納得です。
まあ志賀郡一郡をもらえる信長に仕えたくなるのも分かります(笑)。

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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.11.08 Mon 00:31
カテゴリ: 講座・講演
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