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丹波亀山城主前田玄以 

さて昨日の記事で気になっていたこととは、『いつ、前田玄以が丹波亀山城主になったのか?』です。
この記事で意味あり気に書いてる話です。

問題の史料は、梶井門跡応胤、この時点(文禄四年八月四日)では還俗して尊悟から大原御所(三千院)宛の書状で、
「~中略~、京中の儀ハ石田・右衛門尉両人奉行之由候、民法ハ公家・門跡・諸五山申次之様ニ申候、丹波国被仰付候とて、亀山城守治定候、金吾ハ小早川ニ被預候、十人扶持なとと申候、但風説のミにて候間、実説たるべからす候

前述の記事では、丹波国以前の部分までです。
中略部分には、秀次の妻子が処刑された様子が書かれています。
私が気になったのは、『丹波国被仰付候とて、亀山城守治定候、』で、玄以が丹波国をあたえられ亀山城主になった。と自分は解釈していましたが、なにぶん古文書を読む素養がないので(大汗)、上のように読んで良いのか、不安がありました。
そこで先日、質問してお答え頂いた次第です。この質問と回答の間に、治定(じじょう)を指摘されていたのですが、ふむふむと頷きながら内心?が浮かんでいましたが、あとで調べてみると、決定の意味でした。

ちなみに、書状主の送り主である梶井門跡とは比叡山延暦寺の門跡です。当日の「信長公記を読み解く」で初めて知りました。門跡とか公家とかの素養も…。

追記訂正2010.10.10
丹波城主じゃなく、丹波亀山城主でした(大汗)。
あと本文も少し添削しました。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.10.03 Sun 23:56
カテゴリ: 本・資料
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