07/ 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31./09

「信長公記を読み解く」第15回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回は、志賀の陣についてです。

この対陣について、自分の中のイメージとしては、比叡山の朝倉・浅井連合軍と麓の織田軍との真っ向の対陣だと思っていたのですが、レジュメの作成された地図を見てがらりと変わりました。
完全に、とまではいきませんが、ほぼ比叡山は織田軍に包囲されているからです。
ついつい近江側のみに目がいきがちですが、比叡山の西、山城側にも織田軍が布陣し、比叡山はぐるりと包囲されています。確かに、信長公記にも書いてあります(文章と地図ではちがいますね)。
織田軍の堅田攻めが成功していれば、完全包囲間違いなし、です。

また、包囲網完成のために信長は、六角氏や阿波三好氏と和議を結びますが、
言継卿記』の十一月二十四日条に、
六角入道承禎、今日志賀へ被越、織田ニ禮被申云々
と、六角義賢自ら志賀の陣を訪れ、信長に礼を言っていることです。これには不倶戴天同士の間柄だと勝手に考えてたので、びっくりました。

さて、『江濃越一和』と呼ばれる朝倉・浅井連合軍と織田軍との和議ですが、講座を聞いて、これまた目から鱗でした。
そもそも連合軍と信長の間の和睦が問題というよりも、連合軍に味方した比叡山が和議の障害になったこと、さらに浅井は和議に口を挟めていないことです。
それなのに、和議の内容では酷い目にあっています。
時の関白二条晴良の弟で、興福寺大乗院門跡の尋憲の日記、
尋憲記」の十二月十三日条には、
北郡浅井知行者三分一程、三分二者信長存知させられ候
とあります。関白の弟で和議の情報は正確でしょう。
姉川合戦に敗れ、小谷城に追い込まれた浅井長政は、これを飲むしかなかったんでしょうね。
ちなみに、関白二条晴良は、この和議の実際の仲介者と呼ぶべき人物で、
和議がならない場合は高野山に隠遁すると脅しています(笑)。
調べてみたら、この晴良の父二条尹房は、大内義隆のもとにいた時、陶晴賢の謀反が起こり、両者の仲介に動くも失敗して殺されています。
案外、父の無念があったのかも知れません。

和議の重心が、信長・朝倉・比叡山にあったとすると、江濃越一和の江っていうのは、浅井氏を指すのではなく比叡山を指すのか、と思ってしまいます。
そうなると、信長と本願寺との和議の場合はどう表現しているのか気になります。

あと、講座外の質問ですが、桐野さんにお答え頂き(ありがとうございます)、前から気になっていたことの答えがでたので、そのことも記事にしたいと思います。
まあ、本当に小さなことなんですが(汗)。
スポンサーサイト

テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.10.02 Sat 21:24
カテゴリ: 講座・講演
comment(0) | trackback(0) | 記事編集

PAGE TOP

« 丹波亀山城主前田玄以

書いた!送った!疲れた… »

コメント

PAGE TOP

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

PAGE TOP

トラックバック

トラックバックURL
→http://isekoku.blog79.fc2.com/tb.php/89-e9fcd168
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

PAGE TOP

 | h o m e |