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「信長公記を読み解く」第9回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回は、三好三人衆の本國寺襲撃、信長の室町幕府殿中掟制定がメインでした。

本國寺襲撃は、永禄十二年(1569)の正月、昨年の上洛戦も終わって信長が岐阜に帰国した隙に、阿波から畿内に上陸した三好三人衆が、将軍となった足利義昭の宿泊する京都六条本國寺を襲った事件です。
とはいえ、私も上記ぐらいのことしか知らず、具体的なところまでは知りませんでした。今回、一次史料で色々と教わりました。

言継卿記によれば、
正月四日
自南方敵出張、?小路迄自云々、自東岩蔵之山本敵ニ成云々、勝軍御城焼之、其外田中、粟田口、角社一間、法性寺多焼、ヌカノ小路大略焼之了、京中又意外騒動也
正月五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(政康)、石成主税助(友通)以下、今日悉本國寺取詰攻之、午刻合戦、寺外焼之、中堂寺、不動堂、竹田等放火、武家御足軽衆以下廿余人討死云々、責衆死人手負數多云々
正月六日
三好日向以下、悉七条へ越云々、自西池田(勝正)、伊丹(親興)衆、北奉公衆、南三好左京大夫(義継)取懸、左京兆鑓入之、従三方切懸、三人衆以下申刻敗軍、多分討死云々、及黄昏之、無特沙汰

正月四日に将軍方の東岩蔵(京都東山の地)の国人・山本氏が三好方に寝返り、京都の東方の東山一帯に放火(田中~は大半が東山周辺の地名)。翌五日午後、三好勢が本國寺を攻めるも、損害を出して敗退。
六日には、将軍方の人数が後詰に駆けつけ、西から池田・伊丹勢(摂津の国人)、北から将軍奉公衆、南から三好義継(河内若江城主)が三好勢を三方から攻める。三好三人衆は敗北、となります。

この時点の三好氏は、本宗家である三好義継・松永久秀は将軍方に付き、阿波三好家(三好三人衆)は反将軍方にと分裂していました。そのためか、三好三人衆の人数は六千ほど(多聞院日記)。
驚いたのは、信長の隙を突いた動きなので完全な奇襲だと思っていた三好勢の動きが、三日時点で朝廷にその動きが伝わっていたことです(御湯殿上日記)。朝廷にも聞こえていた以上、義昭も三好勢の動きを察知し、防備を整える時間があったのではないかとのこと。また宿所の本国寺は法華衆の寺で、戦に備えた造りでした。
絶体絶命のピンチとの印象だった本國寺合戦でしたが、案外、危地をどうにかしのいだ戦ではなく勝算ある防戦だったのかも知れません。実際、五日の本国寺での合戦では三好勢を撃退していますし、摂津や河内からの後詰が翌日には到着して三好勢を撃退。わずか三日で終息しています。


あと豆知識みたいな話として、本國寺は本圀寺と書かれますが、これは黄門様で有名な水戸光圀の一字をもらって変えたとのこと。

次回は、山科言継とルイス・フロイスです。
また四月からの新しい講座「戦国の手紙を読み解く」の内容は、織田信長・上杉景勝・安国寺恵瓊・伊達政宗・千利休・豊臣秀吉の全六回です。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.03.27 Sat 03:03
カテゴリ: 講座・講演
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