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「信長公記を読み解く」第6回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。

今回は、美濃攻めと足利義秋との接触です。
自分の中では、稲葉山城を落として濃尾二カ国を手に入れた信長に、越前の朝倉義景の動きのなさにしびれを切らした義秋が信長を頼んだと漠然と思っていましたが、それ以前から信長・義秋の間に交渉があったとのこと。

信長の上洛は永禄十一年(一五六八)ですが、その二年前、永禄九年の段階で足利義秋による和平斡旋があり、信長と斎藤龍興との間で和平が結ばれていたのです。これは信長の上洛の地ならしでした。
ところが龍興が裏切り、この和平は破綻します。
この流れを記す書状として、
閏八月十八日付甲斐国何某宛の氏家直元等連署状写があります。
そこには、
一、濃尾間之事、先書ニ如申入候、公方様(足利義秋)御入洛ニ付而、織田上総(信長)参陣御請申之条、対尾州此方矢留之儀、令同心者可為忠節之由、被仰出候、(中略)
「(中略)、去春己来三好かたより、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重二在之由候き、彼等依妄言、御上洛相滞、剰江州矢嶋御逗留も難届式候之間、朽木歟若州辺へ可被移御座之旨候、(中略)
とあり、義秋入洛に信長が参陣するために濃尾和平が行われたが、三好氏からの調略交渉で龍興が義秋方から三好方に寝返ったことが分かります(江南の六角氏が仲立ち)。
当時、三好氏は足利義栄を将軍に擁立しており、対抗馬たる義秋の上洛運動を阻止するために龍興に調略の手を伸ばしたようです。
三好=六角=斎藤のラインが成立し、近江矢嶋の安全も怪しくなった義秋は、朽木へ移り、若狭に逃れ、最後に越前へと落ち着いたようです。
ところが、越前の朝倉義景は上洛の兵を挙げる様子もなく、そのうち信長が永禄十年(一五六九)に稲葉山城を落とし、濃尾二カ国を手にします。

いわば永禄十一年の上洛戦は、義秋と信長にすれば、リベンジとなる二度目の上洛戦だったのです。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2009.12.28 Mon 21:54
カテゴリ: 講座・講演
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