09/ 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31./11

「信長公記を読み解く」第4回続編 

今回は、この記事の続編です。
実際の本編です(汗)。

信長公記の桶狭間合戦を読み進めるにあたり、桐野氏は三つのキーワードを挙げられていました。
①「東」 ②「戌亥」(北西) ③「山際」

桶狭間合戦における場所の比定に関わる単語です。
②は、今川軍の布陣についてで、信長と衝突前、北西に向かって段々に布陣していた。
③は、中嶋砦を出撃した信長は山際に人数を寄せた。中嶋からの信長の動きに関して。
①は、山際に向かったところに後方から雨が降り、沓掛の木が雨で東に倒れた。同上。

中嶋砦から出撃するに際し、信長は、
各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて夜もすがら来り、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛苦してつかれたる武者なり」と説明し、山際まで人数を寄せています。
ここから分かるのは、鷲津・丸根砦を落とした敵、つまり大高城方面からの敵と戦った。方角は中嶋砦からすれば南西から南になります。
しかし、次の雨の記述で?マークが出てきます。
山際に兵を寄せると、突然強雨が降ります。しかも「敵の輔(ツラ)に打付くる。身方は後の方に降りかかる」とあり、山際への記述から、から打ちつける雨だと思われます。ここまでは良いのです。
ですが、さらにこの雨の強さを説明するに、沓掛の峠の楠の木が「雨に東へ降倒るる」とあり、雨のせいでに倒れたとあります。ですが、山際の記述から雨はからだと思われるのに、倒れたのはではなく
雨の前半部分を信用するなら信長は南の方へ押し出しているのに、後半を信用するなら信長は東に向かっている。前後に矛盾が生じています。


私が気になるのは大木が東に倒れた後の記述、「余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり」とあることです。

この沓掛の大木の記述の前後は、まさに戦いの記述ですが、この沓掛の大木・熱田大明神云々が妙に浮くんですよね。
これは信長公記版の白鷺ではないかと。
甫庵信長記で有名な、熱田神宮で白鷺が飛んだのを信長が吉兆とした場面(信長公記にはなし)のようなものではないかなと思うのです。また、甫庵信長記の雨中の奇襲でも「大雨頻に熱田の方より降り来り」とあります。
普通に戦ってはとても勝ち目がない戦いで、なんと敵の大将を倒してしまった。
現代の我々は奇襲ならアリと思うように、当時の人々は神の加護(熱田大明神)ならアリと思ったのではないでしょうか。
神風じゃありませんが、戦の最中の雨を神雨として思った太田牛一が、沓掛の大木の話をわざわざ戦いの記述の最中に入れたような気がします。
そう思うと、甫庵信長記の白鷺の場面や雨中の奇襲は、熱田大明神の神軍の言葉を膨らました結果に思えてくるんですよね。


そう考えて沓掛の話(その中の「東」)を無視して読めば(強引?)、信長の動きはスッキリするような。
②や義元本陣は何処?という点はいずれまた妄想(笑)したいと思います。

スポンサーサイト

テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2009.11.13 Fri 20:56
カテゴリ: 講座・講演
comment(0) | trackback(1) | 記事編集

PAGE TOP

« 小西行長

再始動 »

コメント

PAGE TOP

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

PAGE TOP

トラックバック

トラックバックURL
→http://isekoku.blog79.fc2.com/tb.php/55-6ca09758
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

[歴史と伝説][信長学]桶狭間合戦の勝因

織田信長が今川義元を討ち取り今川軍を壊走させた桶狭間の合戦。信長の勝因について多くの研究者が論じていて、たくさんの説があり、決着が付いていないと言えるだろう。 ⇒桶狭間の戦い - Wikipedia ところで、この時豪雨が降ったという話はとても有名。そのことが信長にと 国家鮟鱇【2010/02/11 00:15】

PAGE TOP

 | h o m e |