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「信長公記を読み解く」第3回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回は、村木城の戦いと弟信勝との抗争が中心です。

村木城の戦いといえば、舅である斎藤道三の兵に留守を任せるという信長の大胆さの話くらいにしか考えていませんでした。しかし、いろいろと思いちがいというか、勉強不足を痛感しました(汗)。
まず、道三の援軍(安藤守就ら千余人)は、那古野城に入ったとばかり思っていましたが、
信長公記』の記述では(以下角川文庫信長公記)、
道三かたより、正月十八日、那古野留守居として、安東伊賀守(安藤守就)大将にて、人数千ばかり、田宮・甲山・安斎・物取新五、此等を相加へ、見及ぶ様躰、日々注進候へと申し付け、同事に正月廿日尾州へ着越候キ。居城那古野近所志賀・田幡陣取をかせられ
とあるように、那古野城の近在に駐屯していた様子です。まあ、やはり城を任せることはなかったようです。

さて、村木城攻めは迅速迅雷そのものです。
20日:着陣した安藤守就に挨拶。
21日:那古野出陣、熱田泊。
22日:大風の中を船出し、知多半島に上陸、野陣。
23日:小川の水野下野守(信元)と合流。小川泊。
24日:払暁に出陣。村木城を攻め、降伏開城。
25日:寺本に兵を送り、那古野に帰陣。
26日:守就の陣に礼に行く。
27日:守就ら美濃衆帰国。
実質五日です。
しかも村木城攻めでは、信長自身が堀端から狭間三つを相手とって鉄炮を放っています。
この信長の戦い振りを聞いた道三は、『信長公記』によれば、
山城(道三)申す様に、すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よと申したる由なり
まあ、そう思うでしょうね・・・。富田の会見につづき今回の戦い振りですから。

この村木城攻めの話の中で話題となったのが、村木城についての記述です。
北は節所手あきなり。東大手、西搦手なり。南は大堀霞むばかりかめ腹にほり上げ、丈夫に構へ候
の『かめ腹』という表現です。ちなみに搦手口は叔父の織田信光、大手口は水野信元が担当し、この南の大堀を信長が攻めています。
これはどういう堀なのかと話になり、
北条氏の城郭の特徴である障子堀のような亀の甲羅模様に区切られた堀、亀の甲羅のように堀の斜面がなっている、など挙がっていました。
そこで『日本戦国史国語辞典』で調べてみました。

かめばら【甕腹】 堀などを甕のように深く掘り下げること。

この『かめ腹』という言葉、亀腹と思っていましたが、実際は『甕腹』のようです(甕とは液体を入れる底の深い陶器)。亀じゃなかったのか・・・。
大堀霞むばかりと前段にあるので、幅も底もある堀だったようです。
液体を入れる陶器から、水堀?なんて思いましたが、城攻めの様子で、
若武者共我劣らじとのぼり、撞落とされては又はあがり
とあるので、やはり空堀か、どうなんでしょう?
信長公記の原文には、甕腹とあるのかどうか気になるところです。

次回の講座は、桶狭間の戦いです。
桶狭間の戦いも研究者の方々により、いろいろな説が出されており、どういった話になるか楽しみです。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2009.09.25 Fri 20:49
カテゴリ: 講座・講演
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コメント


甕腹でしたか。
こちらも少し手抜きでした(汗)。
有難うございます。
【2009/09/26 01:12】
URL | 桐野 #hxjklqKc[ 編集 ]
村木砦
尾山先生、先日は色々ありがとうございました。これを切っ掛けとして、昨日から、貴著『信長東征伝』をぼちぼち読み始めました。登場人物の中に、水野信元はじめ水野一族が度々登場しており、すごく嬉しく思い、この先が楽しみです。でもさすがこれだけ多くの水野の資料を収集されておられることに感服いたしました。
 それから、村木砦のお話に関連しまして、拙個人ブログでも3編書いておりますので、もしよろしければご高覧いただけたら幸いです。 水野青鷺(∞ヘロン)

C-1 >村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
【2009/09/27 03:58】
URL | 水野青鷺 #BaoC.tsY[ 編集 ]

桐野さんへ
いつも講座を楽しく学ばせていただいています。

「かめ腹」の前の言葉。大堀霞むばかりに、という表現と講座中に話された障子掘などの堀とちょっとイメージが合わないなと感じて調べた次第です。

手元にある「信長公記 ニュートンプレス社・原本現代訳」(史籍集覧の我自刊我本を底本)の記述ですと、甕形に掘り上げた、となっています。ネットで原文を探してみると、かめ程にほり上げ、とありました。

単語一つに史料の奥深さを感じました。
【2009/09/27 16:43】
URL | 尾山晴紀 #5Z3bxbvs[ 編集 ]

水野さんへ。
信長東征伝を読んでくださり、ありがとうございます。

史実の尾張と三河の狭間の哀愁の代わりに、信長に酷使される苦労ばかりな水野信元になるかと・・・。水野氏史研究会の方が読まれるとなると感想がこわいです(汗)。

ブログのページ見させていただきました。
刈谷や小河の周辺図で見てみると、村木の場所が信長との連絡を絶つ、絶好の位置にあることが分かりました。ありがとうございます。
【2009/09/27 16:56】
URL | 尾山晴紀 #5Z3bxbvs[ 編集 ]
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2009/10/05 13:17】
| #[ 編集 ]
Re: リンク許可のお願い
リンクの件了解しました。

【2009/10/05 22:53】
URL | 尾山晴紀 #5Z3bxbvs[ 編集 ]

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