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第1回三国志徒然列伝 董卓 

さて記念すべき第1回の話はこの人、董卓です。

董卓、字は仲穎(ちゅうえい)、隴西郡臨洮県生まれ。
と言われても、どこそこ状態なので調べてみました。
長安のある雍州の一番西が隴西郡であり、その中の山の中といった所です。ちなみに長安と臨洮県の距離は450kmほど。これは羌族と親しく交わっていたというのも頷けます。

董卓と言えば、肥満体の脂ぎったオッサンであり、その性質は酷薄残虐なイメージがあります。
実際、董卓に関する正史のエピソードは、残虐無道な話が多くあります。
しかし、董卓とその軍勢の残虐行為はともかく、政治姿勢は意外なものでした。

時の皇帝霊帝が崩御し、少帝が即位すると外戚の大将軍何進(妹が霊帝皇后・少帝の母)と宦官の対立が深刻化し、機先を制した宦官たちが何進を暗殺、何進の腹心だった袁紹がその復讐に宦官たちを皆殺しにします。
何進は圧力として地方の軍勢を呼び寄せていました。その一人が董卓でした。
外戚・宦官という後漢王朝を左右してきた二大勢力がいなくなり、力の空白地帯に董卓が現れたのです。
董卓は、大将軍何進とその弟で車騎将軍可苗(宦官殺戮の際に死亡)の軍勢を取り込み、さらに董卓同様上洛していた并州刺史丁原(呂布に殺される)の軍勢も吸収し、朝廷を牛耳ることができました。
董卓が実際に率いてきた人数は三千と言われ、一度都に入った人数を密かに出して、翌日新たな軍勢に見せて入城させるなどしていたようです。

董卓はまず少帝を廃します。代わって少帝の弟陳留王を立てます。
このとき董卓は、「少帝は暗愚で礼儀もなっていない、逆に陳留王は賢く礼を知っている」とまあ、こんな感じに主張したわけです。
そこで不思議に思ったのです。
董卓の主張が正しいのであれば、バカな少帝のほうが董卓にとって都合がいいはずでは、と。
廃された少帝、その母可太后は殺されています。董卓の主張に反対した盧植を処刑しようともしています。でも董卓は董卓なりに朝廷の刷新を図っていたのでは思うのです。
可太后は以前に霊帝の母董太后と確執があって殺しています(陳留王の母も)。董太后は陳留王の育ての親です。
可太后はあまりに個人として酷薄、また政治的にも影響力が強すぎます。何進が宦官誅殺に手間取ったのも可太后の反対(後宮入りや生活に宦官たちの世話になっている)が原因でした。可太后は刷新の邪魔な存在と言えます。そのためには皇帝の母という立場を意味なくする必要があったのでは、と思います。
廃された少帝と可太后は殺されています。これで完全に董卓の邪魔者はいなくなりました。
実権を握った董卓は地方官の人物推挙を素直に受け入れています。
韓馥、孔伷、劉岱、張邈らです。ところが彼らは反董卓連合軍に参加します。
董卓は裏切られたわけです。ちなみに彼らを推挙した人たちは処刑されています(汗)。

もし反董卓連合軍という武力解決を諸侯が選ばなかった場合、後漢王朝はどうなったか?
反董卓連合軍の挙兵は、各地の諸侯の分離自立化につながりました。これがなかった場合、意外と後漢王朝は安泰にして長続きしていたのではないかと思うのです。
長安遷都もないでしょうし、各地の戦乱もなかったでしょう。
董卓の専横は、恐らく王允のような朝廷内クーデターで打倒され、後漢王朝での政変劇のひとつに収まっていた気がします。
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2016.10.18 Tue 23:24
カテゴリ: 三国志
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