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第11回『天正記』を読む 

今回は秀吉の関白任官についてです。

ご存じのとおり秀吉は人身位を極める関白となり、天皇・朝廷の権威をもって天下一統を成し遂げます。
天正十年六月に織田信長が本能寺に倒れて、わずかに三年、天正十三年七月に従一位関白になります。

朝廷の記録によれば、
天正十年十月に従五位下左近衛権少将、天正十一年五月に従四位下参議となり、天正十二年十一月に従三位権大納言、天正十三年三月に正二位内大臣、同年七月に従一位関白になります。
ですが、これはいわゆる遡及叙任と呼ばれるもので、のちの異常な昇進をできるだけまともに見せる記録の改ざんでした。
実際の秀吉の最初の叙任は天正十二年十月に従五位下左近衛権少将です。

面白いなあと思ったのが、この官位についての推測です。
天正十二年十月は、秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍との戦いの真っ最中でした。小牧・長久手での大敗により、連合軍の打倒が難しいと判断した秀吉は連合軍の切り崩しを図り、信雄との単独講和に動いています。
秀吉の叙任について
宇野主水日記(本願寺顕如の側近の日記)では、
筑州(秀吉)昇進事被申入云々。今迄ハ平人也。只今四位参議大将ヲカケラルベキト云々其旨源中納言 勅使トシテ関白ヘ勅問云々
多聞院日記でも、
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任、兼将軍の官ヲ可被成之旨雖有勅諚、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
とあります。
つまり天皇が秀吉に四位の将軍、大将にしてはどうかと諮ったところ、秀吉が五位の少将にわざわざ下げてもらって叙任という形になっているのです。その後の昇進スピードに比べてどうしてへりくだる必要があるのか。
それは信雄との講和があったからではないか、との話でした。
信雄は信長の生存時に叙任され、正五位下左近衛少将になっています。つまり四位の大将になろうものなら、官位で信雄を上回るわけです。講和交渉を考えると、いたずらに信雄を刺激することになります。喧嘩売っていると思われそうです(笑)。逆に信雄よりも下の従四位下の少将であれば、信雄に配慮したと見られます。

そして信雄との講和が結ばれた途端に、ごぼう抜きどころではない従三位権大納言への昇進です。
信雄がどう思ったか、想像に難くありません。
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2015.11.30 Mon 23:37
カテゴリ: 講座・講演
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