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第10回『天正記』を読む 

ブログのパスを度忘れして書けなかった今日この頃です。
ここ半月ばかりひどい咳にかかり、体調管理の大切さを痛切に感じています。

さて、今回の話は天正十一年の賤ヶ岳の戦いから間を空けて、「紀州御発向記」です。
名高い小牧・長久手の戦いはありません。天正記に実際にはあったのが紛失してしまったのか、それとも敗北・苦戦のため載せてないのか、分からないのがさみしいところです。

それにしても秀吉の権威武威の発揚がメインのせいか、どうにも読んでいて美辞麗句の文章が鼻につきます。

秀吉の紀州攻めは、小牧長久手の戦いの際に雑賀方(根来衆や和泉一揆)が秀吉の留守を狙い、大坂城を目指して和泉に侵攻したことが原因となります。岸和田を守っていた中村一氏の奮闘もあり、なんとか撃退しましたが、和泉南部は雑賀方の占領下。秀吉にすれば遺恨のある相手です。
天正十三年(1585)三月、岸和田の南にあった雑賀方の陣城・砦を攻め落とし、秀吉の大軍が紀州になだれ込みます。根来寺を焼き尽くすと、雑賀衆のたてこもる太田城をこちらは水攻めにします。ひとつきの籠城戦の末、太田城は首謀者50人ばかりを引き渡すことで開城・城兵助命。
ここに紀州は完全に組み込まれ、秀吉の弟秀長の領国となります。

とまあ、秀吉の紀州攻めといえば根来寺の焼亡に大田城の水攻めと、秀吉軍の一方的勝利と思っていました。
しかし、雑賀方もなかなか奮闘したシーンもあるようで、
イエズス会日本年報によれば岸和田南にあった千石堀の戦いでは城外に出撃して3000人、援軍をさらに3000人、城塞で1000人、都合秀吉軍7000人を討ったとあります。
ちょっと眉唾な感じの人数ではありますが、この千石堀の雑賀衆が奮闘したことは確かなようで、
真鍋真入斎書付には、
一揆とも泉州之こぎ(近木)ニて、鉄炮二千挺にてささへ申候得共、長谷川籐五郎(秀一)殿・中川藤兵衛(秀政)殿・高山右近(重友)殿・筒井順慶(定次の誤記)・木村常陸介・備前浮田中納言殿、右之衆中馬を御入、皆々ことごとく追散シ、(中略)、千石堀事之外やうがいよく御座候故、能者共四五百人も籠居申候を、三好孫七郎(秀次)殿大将にて、浅野弾正(長吉)・中川藤兵衛・高山右近、此衆乗取被申候、?寄手衆之衆中は皆々討死のよし、孫七郎殿御養父左京大夫殿?御譲之大功之者とも、皆々長久手と千石堀ニ而討死いたし申候由、長久手の明ル年ゆへ、孫七郎殿あつはれ一手際と思召候ゆへ、七十五人之功之者とも過半討死仕候由
真鍋氏は和泉国衆でかつての第一次木津川河口の戦いにも参戦した、歴戦の水軍の武将です。
この書付によれば、千石堀攻めの大将三好秀次は多くの損害を出したようです。
これは先年の小牧・長久手の合戦で秀次が大敗を喫したことで、汚名返上・名誉挽回とばかりに家臣達が奮戦した結果と真鍋真入斎は述べています。
長久手とこの千石掘の戦いで、秀次が養父三好康長から譲り受けた名のある家臣の過半が討死とあり、秀次個人の人格・才覚とは別に、家臣団という面から見た秀次の苦境がうかがいしれます。
また鉄炮二千挺ともあると、イエズス会の数字にも頷けるところがでてきます。
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2015.11.09 Mon 23:45
カテゴリ: 講座・講演
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