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第6回『天正記』を読む 

今回の講座は清州会議が中心でした。

ご存じのとおり、織田家家督についての協議は、織田信忠の遺児三法師を四家老(秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興)が支える体制となりました。明智光秀や信忠の領国は、信長の二男・信雄や三男・信雄、仇討ちをした秀吉などにより分配され、四家老の残りの三人も加増となり、大小はあれどそれぞれが得をした形になります。
ところが、美濃を手に入れ岐阜城主となった信孝が、手元の三法師を安土城に送らずに手元に残したことで、この清州体制が揺らぎ始めます。秀吉の台頭に警戒感を抱く勝家と信孝が結び、秀吉との対立が鮮明になります。
これに対し、秀吉は三法師を断念し、信雄を家督につけることにします。
遠山佐渡守他宛連署状写
今度 三介様御家督儀、各令馳走被成御座候付而、御分国侍不残罷出、御礼申上候
と、秀吉、長秀、恒興の三人が連署して知らせています。この書状は天正十年極月(12月)二十一日付。清州体制は1年どころか半年で瓦解したことになります。

ところで、今回の私的目玉はこの清州会議の話ではなく、徳川家康の行動です。
本能寺の変による危地、伊賀越えから帰国した家康は仇討ちに兵を西に向けますが、すぐに秀吉の勝利を知って兵を戻します。そこから武田氏滅亡後に入部した織田家諸将が帰国し、無主の地となった信濃・甲斐を巡って北条氏・上杉氏と争い、甲斐と信濃の大半の領有権を確保し、五カ国の太守へと勢力拡大に成功します。
この後、信雄と組んで秀吉と対立して小牧・長久手の戦いになり、また、のちの秀吉死後の政権獲得のいわゆる狸親父のイメージから、この信濃・甲斐の奪取は本能寺の変後の混乱に乗じての『汚い』勢力拡大と感じていました。
ところが、天正十年七月七日付 徳川家康宛秀吉書状には
今度信長不慮之事御座候付而、信州・甲州・上州ニ被置候者共罷退候、然者両三ヶ国之儀、敵方江非成御渡儀候条、御人数被遣、被属手候之様ニ被仰付、尤存候、猶追而可得御意候、恐惶謹言
とあります。
つまり徳川家康の旧武田領への出兵は、清州体制の公認であり、領国化を認めるものでした。
信雄の家督継承、清州体制公認の五カ国太守となった家康。
これらのことで今までとはちがった小牧・長久手の戦いへの視点がえられる気がします。まだ先の話ですが(汗)。
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2015.07.16 Thu 20:29
カテゴリ: 講座・講演
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