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第4回・5回『天正記』を読む 

最近ごたごたして、書くことができませんでしたが、もうちょっと記事をあげていこうと思う今日この頃です。

今回というか、先々月(汗)と先月の講座を合わせて書きたいと思います。
前回が本能寺の変での二条御所の戦いを中心に、今回は山崎の戦いがメインになっています。
とはいえ、有名な話だけに復習のような感じになりました。本能寺の変については、以前、桐野先生の講座の本題でやったことがあるのでデジャブ感(笑)。

その中で勉強になったことは、ある人名です。
その名は宮部次兵衛尉です。
山崎の戦い後の秀吉の近江平定において、
江北阿閉万五郎、惟任が一味として在城す。秀吉に宿意あるが故に、降参に堪へず、長浜を開け退き、吾が本館に楯籠る。秀吉、元来、悪(にく)むところ、何ぞこれを緩やかにせんや。則ち、宮部次兵衛尉・中村孫平次一氏を遣はし、阿閉の一類、悉く磔に懸けるものなり
この宮部次兵衛尉とは、のちの豊臣秀次のことです。
秀次は最初近江の武将宮部継潤の養子となり、のちに三好一族の長老三好康長の養子(三好孫七郎信吉)、さらに秀吉の後継者として豊臣秀次となります。
秀次の三好氏入りの時期について、本能寺の変の前なのか後ろなのかで問題にもなっています。
惟任謀反記は天正十年十月に書かれているので、このことから考えると秀次の三好氏入りは本能寺の変後と考えるのが妥当と思われます。
主家の信孝が養子入りしたところに秀吉がさらに養子を送り出した、と考えるよりも、賤ヶ岳の戦いの頃に背後の長宗我部氏に備えるために三好氏の養子に出した、と考えるほうが自然かなと思います。

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2015.06.01 Mon 23:36
カテゴリ: 講座・講演
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