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第3回『天正記』を読む 

いろいろごたごたしてご無沙汰しました(大汗)。

さて今回(ひと月前ですが・・・)の講座では、ひとつの単語とその前後の文章についてです。
惟任謀反記の高松城の水攻めの項で、
然らば、当日、西国の限り、一片に属すべきの旨、上意を得奉るのところ、御下知をなし下され、卒爾の合戦然るべからざるの旨、御諚ありて、堀久太郎秀政に池田勝九郎元助・中川瀬兵衛尉清秀・高山右近重友等を差し加え、これを遣はす。将軍は、信忠を京都に相具し、御動座あり。重ねて、惟任日向守光秀を軍使として、早々着陣せしめ、秀吉と相談すべし。合戦の行(てだて)に依つて、御動座あるべきの旨、厳重なり。
とあります。
問題となる単語は「軍使」です。てっきりそのままの意味、使い程度に考えていましたが、この軍使の意味は名代であり、この場合は光秀が信長の名代ということになります。
確かに使い程度の話であれば、後段の秀吉と相談という話は大げさです。また、通説の光秀は秀吉の援軍という立場、下風にあったというのであれば相談ではないはずです。
しかも光秀組下で援軍に派遣される予定(通説)の摂津衆の池田・中川・高山の諸将が、堀秀政に付けられて送られる予定だったこともまた、光秀の立場が通説とはちがったものではないか、と思わせます。

さらに光秀が信長の名代であれば、私の今まで持っていた疑問の答えになります。
それは、「本当に信長は京都から中国表にいく予定だったのか?」ということです。
通説では、秀吉の高松城水攻め→毛利家の大軍の後詰→秀吉救援要請→光秀援軍派遣→信長出馬、となり、中国表への途次京都にて本能寺の変に遭うというものでした。
しかし、四国国分けで有名な書状(信孝に讃岐、三好康長に阿波)には、土佐に関しては淡州(淡路)に行ったときに決めるとあります。つまり信長は中国表ではなく、四国攻めに向かうつもりだったのではないかと思っていたのです。

信孝の四国遠征軍は1万5000程度、これに讃岐・阿波の三好勢力が加わったとしても2万がいいところ。これで渡海先の四国の讃岐・阿波、さらに土佐を平定するとなると兵力不足は否めません。
しかし、これに信長の軍勢が続くのであれば話はちがってきます(あるいは信忠が大将か?)。
いわば武田征伐における信忠の立場に信孝が立つことになります。

信孝の四国征伐軍の渡海は確かに脅威ですが、信孝の一軍のみであれば長宗我部家も対抗できたはずです、しかし、信長の親征となれば長宗我部家は風前の灯です。

信長の行き先が中国表の秀吉援軍ではなく四国征伐の信孝の後続であるなら、光秀の危機感は前者の比ではないでしょう。
四国問題が謀反の動機とするならば、交渉決裂、四国征伐軍の渡海、さらに信長の親征。これこそが光秀の背中を押したのかなと思います。
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2015.04.22 Wed 00:38
カテゴリ: 講座・講演
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