07/ 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31./09

第59回『信長公記』を読み解く 

さて、今回の講座は、四国国分と神戸信孝、家康の安土饗応がメインでした。

ここから本能寺の変に関しての話題が目白押しです。
四国国分とは、信長三男の神戸信孝に讃岐、三好康長に阿波、残り二か国(土佐・伊予)については、信長が淡路に出馬した際に決めるとのこと。
信孝は三好康長の養子になっているので、事実上、信孝は阿波・讃岐の二か国の国主になることになります。
信孝は長兄信忠と次兄信雄に大きく水をあけられていました。
信忠は尾張・美濃の二か国に配下諸将の甲斐・信濃を勢力に持ち、信雄も伊勢南半国に伊賀の大半を持ちますが、これまでの信孝は伊勢二郡のみ。
京都馬揃えでも、80騎の信忠、30騎の信雄に比べ、信孝は10騎、しかも叔父信包や従兄弟(信長弟信勝の子)信澄と同等という待遇でした。
この待遇改善、信長の一門優遇策(一門というよりは息子たち?)により、つまはじきとなったのが長宗我部氏との取次をしていた明智光秀です。

この四国国分には、これまで長宗我部氏との取次をしていた光秀の存在感はまったくありません。
友好関係から敵対関係になってしまうのは、戦国の世の常ゆえ光秀もそれを意趣に感じることはなかったと思いますが、完全に蚊帳の外にされては心穏やかならざるものがあったのではないかと思います。

スポンサーサイト
2014.05.31 Sat 23:58
カテゴリ: 講座・講演
comment(0) | trackback(0) | 記事編集

PAGE TOP

« 大河主人公

朽ちかけた思いに芽を »

コメント

PAGE TOP

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

PAGE TOP

トラックバック

トラックバックURL
→http://isekoku.blog79.fc2.com/tb.php/220-e6b58baa
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

PAGE TOP

 | h o m e |