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第54回『信長公記』を読み解く 

さて2013年も終わりとなります。今年最後の講座は甲斐征伐①です。

今回のお気に入りのポイントは、甲斐征伐よりも信長が出した条々にある後方配置のところです。

一、大和の筒井順慶は出陣。但し、高野山方面の者は残って吉野口を守ること。
一、河内(若江)者たちは高野山・雑賀方面に備えること。
一、和泉一国の者たちは紀州に向かうこと。
一、三好康長は四国に出陣すること。
一、摂津の池田家は、父恒興は留守を守り、子の元助・輝政は出陣すること。
一、中川清秀は出陣すること。
一、多田は出陣すること。
一、上山城衆は出陣すること。
一、羽柴秀吉は中国方面に残ること。
一、細川藤孝は留守を守り、子忠興は出陣すること。
一、明智光秀は出陣すること。

とあります。
これらのことから、信長が高野山・雑賀方面に気を使っていることです。紀伊隣国の和泉・河内・大和の大半を紀伊に向けています。
この条々が出されたのは2月9日。当時の雑賀は鈴木孫一と土橋氏の紛争が織田方の孫一の勝利に固まった頃です。それでも雑賀・高野山方面に兵を多く向けたのは、高野山を危険視したからではないかとのこと。もし信長が倒れなかった場合、比叡山のようなことが高野山でも起こったかもしれません。
また、秀吉の中国方面からは一切兵を割いていません。
畿内以西における動員は、光秀とその寄騎の筒井・細川、それに摂津の人数だけです。ちと気になるのは中川清秀が動員されながら高山右近がいないこと。それと細川・池田からの出陣には、父親ではなくその子が動員されています。いわば信忠世代が中心です。
柴田勝家の北陸方面軍は上杉家に当たっているため、信長が動員した織田家の戦力は半分程度。しかし、実際の戦いは信忠の軍勢(尾張・美濃)だけで終わってしまいます。

それは次回1月の講座です。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2013.12.30 Mon 00:25
カテゴリ: 講座・講演
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