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第27回『信長公記』を読み解く 

さて今回の講座は、官位辞退と越前一向一揆攻めです。

天正三年(1575)の八月に、織田信長は越前一向一揆攻めを行います。
信長公記には、日時・場所・参戦武将、そして経過が詳しく書かれていて、越前一向一揆攻めの流れがよく分かります。
織田家中の有名どころは全員揃いぶみ、さらに連枝衆もいます。いないのは武田氏に備える信忠とその配下の尾張・美濃衆ぐらいです。西美濃三人衆は信長直属として越前攻めに参加しています。また、水軍として若狭や丹後の武将も加わります。
一向一揆側は、主防衛線である木の目峠を守るべく各所の城砦に越前だけでなく加賀の一向一揆の援兵などが籠り、さらに浜手にも新城をこしらえます。
以外風雨候といへども」の八月十五日、信長は三万余の大軍を押し出します。
浜手の羽柴秀吉と惟任(明智)光秀が活躍し、浜手の一向一揆の城を攻め落とし、一気に防衛線の背後、越前府中にまで進出します。
背後を取られた木の目峠の各城砦はあっけなく自壊し、一向一揆の人数は府中に逃げ出しますが、待ち受けていた秀吉と光秀によって壊滅。
これがなんとわずか一日のこと。
太田牛一が詳しく列挙した一向一揆の防衛線は崩壊します。物書きとしては空しくなりますね(汗)。
越前一向一揆は、この一日で崩壊し、もうあとは一方的な展開というより虐殺状態です。
十六日に信長は馬廻など一万を率いて敦賀を出立。織田軍は各所に残る諸城を攻略。
信長は、八月十七日付け京都所司代村井貞勝宛の有名な
府中町ハ、死かい計にて一円あき所なく候、見せ度候」と書状を送ります。
この後、信長は越前・南加賀の平定と仕置を見届け、柴田勝家らを配して岐阜に帰ります。岐阜には九月二十六日に帰城。一カ月余りで越前一向一揆は滅びました。

ここまで書いて、この信長の残虐さを示す書状に少し疑問ができました。
信長公記には、信長が男女別なく切り捨てよと命じたこと、捕らえて処刑された者や国外に連れ出された男女が合わせて三、四万人におよぶと実際書かれています。
しかし、この書状の死かいは、男女別なくの話ではなく、木の目峠から逃げ出した一向一揆のことではないかと思うのです。
秀吉と光秀は、
府中の町にて賀州・越州両国の一揆二千余騎斬捨てられ」と府中の町の中で戦っています。
当時の府中の町の大きさは分かりませんが、すでに町は死かい計になっていると思います。また、信長公記には十五日から十九日までに着到した面々が捕らえた人数一万二千二百五十余りと書いてますが、十七日段階では処刑しきれるはずもなく、町中で処刑場をこしらえるとも思えません。
さらに、この数はいわば、浜手・木の目峠の防衛線の人数の成れの果て、虐殺で思い描くような男女の区別なく捕らえられたとは思えないのです。女子どもも逃げ込んでいた長島はともかく、一向一揆も前線の城砦に女子どもとともに籠るとは思えません。あくまで一向一揆の戦闘人員が守りを固めていたと思います。
事実、貞勝宛の書状の問題の文章の前段には、防衛線の戦いの流れから府中の町での戦いについて書かれています。
となれば、「府中の死かい計」とは、秀吉と光秀の働きであっけなく一日で越前入りを果たした、賀州・越州の敵主力撃破を高らかに誇った文章、なのではないかと思います。

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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2011.09.26 Mon 23:48
カテゴリ: 講座・講演
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