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織豊期研究会 

先日、織豊期研究会の発表会に行ってきました。
今回は、谷口央氏の『小牧長久手の戦いの歴史的意義』です。

発表の中身は、大きく三点。
1:小牧長久手の戦いの勃発理由
2:小牧長久手の戦いに見る秀吉の位置づけ-陣立書の検討から-
3:戦後の徳川・羽柴両氏の関係と三河真宗教団
というもので、とくに徳川家康の動向、本願寺の小牧長久手の戦いへの関わりについて注目されたものでした。

興味深かったのは、本願寺に対する家康の軟化・硬化の態度の変遷です。
ご存知の通り、家康は桶狭間の戦い後、今川氏から独立して三河一国の奪取に乗り出します。しかし、そこで苦しめられたのが三河一向一揆でした。
家中は分裂し、内紛状態となります。そのため家康は、一向宗を禁じます。
この態度は、織田信長と本願寺の講和があっても変わらなかったようで、門徒の赦免が行われるのは、天正十一年十二月末です。
この後、家康は翌十二年三月に織田信雄とともに対秀吉の戦いに突入します。
当時の本願寺は、紀伊から和泉貝塚に本拠を移し、大坂の秀吉とは良好な関係を築いています。つまり、本願寺対策を怠った場合、本願寺が秀吉方となり、再び一向一揆を起こす可能性があったのです。
そこで本願寺対策として、門徒赦免が行われたのではないか、とのことでした。
面白いのは長久手の戦い後のこう着状態において、和平の話が持ち上がると一向宗に対して態度が冷たくなり、逆に和平話が流れて戦いの継続が鮮明になると今度は三河の有力寺院の赦免を持ち出すといった流れです。

ただ家康に翻弄されただけの本願寺に見えますが、そうでもない節があります。
それは、この期間に三河の有力寺院赦免の噂が流れます。和平の機運だったので家康は噂を否定します(後に和平話が流れて噂が現実になりますが)。
この点は、発表の後の質疑の時間でも指摘されていたのですが、これはもしかしたら、本願寺によるいわゆる観測気球ってやつではないかと思うのです。
本願寺としては、羽柴・徳川両氏の対立が続けば続くほど恩賞は増えます。そこで噂を流すことで本願寺の希望を暗に表示し、徳川氏の反応を伺ったのではないか、と。
そう読むと、噂ひとつもなかなか面白いものです。
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2011.04.22 Fri 00:09
カテゴリ: 講座・講演
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