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第62回『信長公記』を読み解く 

今回の講座では、本能寺の変後の朝廷の対応について。
公武対立論や朝廷黒幕説、公家の日記などで色々と話題になるところです。

まあ、一言で言うと朝廷の光秀への対応は距離を置いたものだったということです。
安土城を占拠した光秀は、そこにあった財宝の一部を朝廷に献上しますが、これに対する朝廷は女房奉書で礼を述べるのですが、この女房奉書というのは礼儀や挨拶に使うもの。最低限の礼儀といった感じ。
また、勅使として光秀に派遣された吉田兼見は3年前まで地下官人(じげかんじん)。
一方、山崎の戦いで光秀を破った秀吉と信孝には、勧修寺晴豊(権中納言)のれっきとした武家伝奏です。ちなみに変前日には信長のもとにも勅使として赴いています。

信長打倒に成功したものの、光秀の政権確立が成功するかどうか不明な時にあからさまに密着はできないとはいえ、朝廷の光秀への対応は外形的に大きな距離感があります。


また今回、この前記事にした新出石谷家文書についてモヤモヤしてた部分がすっきりしたことがあります。

それは、変十日前の斉藤利三宛て長宗我部元親書状がなぜ石谷家にあったのか?ということです。
この書状が変前に届いたかどうか、という点で色々考えるところですが、なぜ届け先の明智・斉藤側ではなく使者の石谷家に残っていたのか、疑問に思っていました。
話は簡単で、書状は届かなかったのではないか、との話でした。
2年前の段階で、土佐と播磨(秀吉)の書状のやり取りで2カ月、土佐と信長のやりとりでも1カ月かかっているとのことで、変10日前の書状は光秀敗亡に間に合わず、結果、使者の石谷家に残ったのではないか、とのことでした。
なるほど、の一言でした。

この元親書状などの新出石谷家文書の翻刻は、林原美術館が来年に出されるみたいで楽しみです。
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2014.09.02 Tue 23:01
カテゴリ: 講座・講演
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