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第60回『信長公記』を読み解く 

さて、ついに信長公記の第60回、最後の講座です(来期は続きで本能寺の変に関して)。

今回はちょっとせつない書状に関して。
本能寺の変では、信長が倒れた以上に織田家の家督を継いでいた後継者である信忠が同時に倒れたことが大きな意味を持っています。
信忠が倒れた結果、織田家の家督争いが発生し、秀吉の台頭を許すことになりました。もし、信忠が生き延びていたら家督争いは発生せず、織田家の天下が続いてた可能性は高いです。

その信忠は信長の上洛前に上方見物の家康と同行して先に上洛していました。
つまり信忠は家康同様、堺に行く予定だったのです。
ところが、五月二十七日付森乱あて信忠書状には
中国表近々可被出馬由候条、我々堺見物之儀、先致遠慮候、一両日中ニ御上洛之旨候間、是ニ相待申候、此旨早々被得御諚、可被申越、委曲様躰使申含候条、口上可申候、謹言
とあります。
信長の中国表出馬・上洛の話を聞いた信忠が、堺見物を取りやめて、信長の上洛を待つと森乱にあてて書いているのです。ちなみに尚々書きには
尚々、家康者、明日大坂・堺被罷下候
とあり、翌5月28日に大坂・堺に向かうことが書かれています。

もし、この時信忠が家康と同行して大坂・堺に行くことにしていたら・・・。
あるいは、家康までも信忠と一緒に京都に残っていたら・・・。

歴史はどんな流れになったのでしょうか。
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2014.07.03 Thu 20:56
カテゴリ: 講座・講演
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