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発見!!『石谷家文書』 

びっくりしました!

今日の講座で知ったのですが、明智光秀の重臣斉藤利三と四国の大名長宗我部氏、両方と縁戚関係にある石谷家の文書が見つかったそうです。
詳細はここ
個人コレクションの整理研究の中で発見されたとのこと。
いや~、少し前に新聞やTVにもでてたのに全然知りませんでした(汗)。

47点あるなかでも特に、天正10年推定の5月21日付け斉藤利三宛て長宗我部元親書状の内容にはビックリマークを3つぐらい付けたいぐらいです。
これまで織田家と長宗我部家の関係は、
①信長が四国切り取り自由を元親に認めた友好関係から、
②四国切り取り撤回・領土削減を信長から求められ、元親が拒絶。光秀の修復・仲介交渉状態。
③信孝を大将とする四国征伐軍の編成・出陣前の臨戦状態
と思われてきました。つまり本能寺の変直前において、長宗我部家は信長と完全に断交状態と思われてきました。

ところが!
この5月21日の書状において元親は、阿波中心の諸城からの撤退を告げ、どうにか土佐近くの大西城・海部城のふたつの保持を認めて欲しいと書いているのです。
讃岐や伊予に関する内容については不明(記載自体わかりませんが)、信長の要求は土佐一国と南阿波半国、これを考えると阿波に関しては十分に信長の要求に沿える内容です。
四国征伐が実際に動き始めたことに危機感を抱いた元親が、2城保持を条件に屈服を決断したのでしょう。

となると問題は、この21日の元親書状が本能寺の変(6月2日)前に光秀・利三が目にしたかどうかです。
土佐岡豊で21日書かれた書状が、海を渡って丹波亀山なり近江坂本にいつ到着したか? ちなみに5月は29日まで。10日あるかないか。
元親の決断を知ってなお光秀が謀反に踏み切ったのであれば、四国政策による動機説は弱まります。とはいえ、返しの書状が発見されないことには・・・。
なにはともあれ、今回の発見によって『本能寺の変』研究が一段と深まることは間違いなしです。

また、二次史料でしか確認されていなかった、元親嫡男信親の一字拝領(信長から信の字)が確認されました。
戦国時代の四国研究では、史料不足から二次史料である軍記物の扱いが問題でしたが、軍記物の記述を裏付ける内容もあることから、戦国四国の研究にも大きな一歩になりそうです。

しかし、所蔵されていた中からこれだけの史料が発見されるとは本当にびっくりです。
今回はコレクションとして保存されていたからこその発見ですが、以前TVで村の史料などが経年や所蔵者の事情で失われていくことを取り上げていました。
新たな発見がひょんなことから土蔵から発見、なんてこともあるかもしれません。お金になるどころかお金のかかることですが、なんとか手立てを講じて欲しいと思います。

追記。
今回の書状の発見で、元親主人公で書いてた話が・・・(大汗)。
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2014.06.26 Thu 22:03
カテゴリ: 雑記
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