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第21回『信長公記』を読み解く 

今回の講座は、「安国寺恵瓊と譲位の申し沙汰」についてです。
将軍足利義昭の追放のその後、また追放後の信長の対調停の動向がメインの話でした。

以前から、この信長vs義昭の話にどうして毛利が噛んできたのか、いまいち理解できずにいましたが、今回の講座でようやく分かりました。ただ、まだしっくりきていない部分もあります。問題は、自分でもそのしっくりきていないのがなにか分からないんですよねえ(汗)。

さて、当時の毛利氏は、西は九州で大友家と激戦を繰り広げていました。そこに中央で台頭した信長の勢力圏が、お互いの緩衝地帯(但馬・因幡・播磨・備前など)の大小の大名豪族の動向にも大きく影響をあたえ始めていました。具体例を挙げれば、備前の宇喜多氏と浦上氏です。
備前をめぐって争う宇喜多氏と浦上氏の戦いは、毛利氏が宇喜多氏を応援しています。もし、ここで浦上氏が信長に泣きつき、信長が浦上氏に付いた場合、毛利氏は大友氏だけでなく、中央の信長との対立も覚悟しなければなりません。
そこで毛利氏は、安国寺恵瓊を派遣し、事前に緩衝地帯の取り決めを結ぼうとしたとのこと。有名な恵瓊の信長と秀吉の予言が書かれた書状には、義昭との折衝、畿内の様子に加え、緩衝地帯の取り決めについても書かれています。

以前から、元就の死後から信長との手切れまでの天正年間前半の毛利氏、西国情勢に興味があったので、レジュメに載せられていた恵瓊の書状は読んでいて興味深かったです。

ちょっと興味を引いたのは、
山中鹿介柴田に付候て、種々申分共候、是又しかと許容有間敷之由、朱印被出候
との一文です。
毛利氏にとって尼子氏残党は頭の痛い問題。その尼子氏残党の山中鹿之助が柴田勝家を通じて信長に接触していたところ、毛利氏の顔を立てたのか、信長は尼子氏残党には協力しない旨を表明しています。
この尼子氏残党をめぐる信長と毛利氏の交渉は知っていましたが、そこに柴田勝家がいたことは見逃していました。

あるいは朝倉氏滅亡後の越前の情勢次第では、勝家が尼子氏残党との関係から、秀吉に代わって播磨入りや山陰出兵といった流れになっていたかも知れません。
それは中々面白い展開になっていたかも。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2011.03.26 Sat 21:52
カテゴリ: 講座・講演
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