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「信長公記を読み解く」第18回 

先日、桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回で第3シリーズも終わり、来年1月から元亀争乱の終結・天正年間の始まりとなります。今回は『武田信玄の西上と三方ヶ原合戦』です。

以前から小さな疑問がありました。
それは信長と武田氏(信玄・勝頼)の長い戦いの中で、どうして一時的なものでも和平が成立しなかったのか?という点です。
今回の講座では、その答えを知ることができました。

一言で言えば、信長は信玄に裏切られたのです。
十月五日付(元亀三年)武田信玄宛書状には、
「~中略~、回報之旨、快然之至候、甲・越和与之儀、申噯候趣、都鄙可為其聞候き、~中略~」
とあります。つまり甲(甲斐武田氏)と越(越後上杉氏)の和平を信長がまとめようとしていたのです。
ところがこの信長の書状が甲斐に届いた頃、信玄はまさに西上作戦に出陣したところでした。これでは信長ならずとも怒り心頭です。
信玄の軍事行動が明らかとなり、遠江や三河で武田軍と徳川軍の戦いが続く十一月半ば、信長は謙信に書状を送ります。
十一月廿日付上杉謙信宛書状では、
就越・甲和与之儀、 被加上意(足利義昭)候条、同事ニ去秋以使者申償之処、信玄所行寔前代未聞之無道者、~中略~、信長与信玄間之事、御心底之外ニ幾重も遺恨更不可休候、然上者、雖経未来永孝(劫)候、再相通間敷候、
とあります。未来永劫、武田とは通じないとの信長の宣言。信長は有言実行します。
のちに勝頼は、美濃岩村城攻めで人質とした信長五男の勝長を返還して和平交渉を望みますが、成功しませんでした。そして武田氏の滅亡は周知のとおりです。
信長の『裏切り者』に対する態度は首尾一貫した、徹底したものです。
桐野氏が武田氏滅亡の理由と指摘されたのも頷けます。

あれ、これって小説のネタになりそうな(笑)。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.12.30 Thu 02:04
カテゴリ: 講座・講演
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