07/ 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31./09

「信長公記を読み解く」第14回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。
今回は、野田・福島の陣と本願寺の挙兵についてです。

まず、前回の姉川の戦い近辺での将軍足利義昭の近江出兵についての話です。
話のネタ元は、武徳編年集成でした。
六月十八日、幕府義昭卿江州高島ヘ出馬延引セラユヘ、細川兵部大輔藤孝、三淵大和守藤秀、一色藤長廻文ヲ贈る
浅井長政の本拠小谷を攻めるというよりは、信長の小谷攻めに合わせて湖西方面に牽制をかけるといった感じでしょうか。
この高島という地名から、講座で配られた史料の中の言継卿記に、気になる一文を発見。
元亀元年九月二十日条のところです。
越前の朝倉義景らが近江坂本に現れたところの一文で、
越州衆、北郡高嶋衆等、其外一揆共三万計坂本ヘ打出云々
この北郡高嶋衆とある部分です。
これは北郡(浅井勢)・高嶋衆と見るべきなのか、そのまま北郡高嶋衆と見るべきなのか、分かりませんが、どちらにせよ一手の衆として名指しされるほどの勢力が、高嶋、湖西地方にはあったのでは? と感じるからです。これはおいおい調べたいと思います(いつになるやら)。

本題の野田・福島の陣では、後に信長を苦しめる紀州の雑賀衆や根来衆らが、将軍・信長方として参陣しています。
信長公記には、
根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷立ち、~中略~。鉄炮三千挺これある由候
尋憲記には、
根ころ衆者三日ニ相立由也、人数八千、紀国衆も立由候、以上一万五千???有由候
当代記には、
根来、雑賀衆一万余同参陣、此内鉄炮二千挺有之
言継卿記には、
公方御合力ニ、根来寺衆都合三万人摂州表ヘ上云々
細川両家記には、
根来寺衆五千人計にて信長へ出陣由に候也
紀州畠山方玉木。湯川両人名代一千計にて信長へ一味して

と、えらく景気の良い人数が並びます。
人数だけでなく、鉄炮の数も二万人の三千挺あるいは一万人の二千挺と、どちらにしても装備率は高く、数も多いです。後の本願寺との戦いに苦しむことになるのも納得です。

さて、では本願寺の挙兵自体はどうだったのか?
この日の史料を読む限りは、案外、大したことなかったようです。
本願寺の挙兵は九月十三日の夜。
翌十四日には淀川の堤を舞台に衝突。信長の武将野村越中が討死し、佐々成政が負傷していますが、そもそも夜半の奇襲効果は見当たりません。その後、朝倉・浅井勢の京都近辺の進出に伴い、二十三日に織田軍は近江に撤退(転進)しますが、本願寺の追撃もなく、渡船を隠す程度。長島の一向一揆では撤退する織田軍を痛めつけているのとは違います。
挙兵失敗を示すのが、言継卿記の一文です。
挙兵翌日の十四日条に、
大坂之一揆者治定云々、一揆事外討死云々、河州(河内)之一向道場悉根来寺衆破却乱妨云々
とあり、逆にここぞとばかりに根来寺衆に河内にあった道場を焼かれたようです。
本願寺の挙兵は、新たな敵の出現以上の効果はなかった、と思います。

そう考えると、浅井長政の離反からも無事逃れ、本願寺の挙兵にも大きな痛手を負わず、と信長の運、というか機転というか、凄いものを感じます。
スポンサーサイト

テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2010.08.29 Sun 02:34
カテゴリ: 講座・講演
comment(0) | trackback(0) | 記事編集

PAGE TOP

 | h o m e |