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「信長公記を読み解く」第5回 

桐野作人氏の講座に行ってきました。

今回の私的一番のポイントは、信長公記そのものの話題です。
信長が将軍義輝に会うために上洛した際、美濃の斎藤義龍が刺客を送った話は有名ですが、この刺客の名前が問題です。それは一人の名前が信長公記の種類で有無の違いがあるのです。
その名は、青木加賀右衛門。
その息子は青木一重です。豊臣秀吉に仕えて関ヶ原・大坂でも生き残り、大名として存続します。
陽明本では、刺客の名前は五人だけです。しかし、後段で刺客を六人と書いています。
天理本には、青木加賀右衛門の名前はあります。

では、どうして信長公記の種類で名前の有無が生じるのか?
その答えは、太田牛一の子孫(二男の系統)がこの青木氏に仕えていることです。
恐らく子孫が主君の父祖が刺客とあるのは、憚りがあると消したのではないか、とのこと。
つまり、陽明本は、この二男の系統と関係がある本と推測されていました。
史料の記述の正確さやそこからなにを導くか、だけでなくこういった本それ自体の裏側に何があるのか、と調べるのも楽しい点があります。


また、この上洛自体の話で興味深いのは、信長の上洛に前後して義龍自身も上洛していることです。
この上洛で義龍は将軍義輝の御相伴衆になっています。
信長はこの暗殺未遂事件ですぐさま京都を立っているので、もしこの事件がなければ、信長もあるいは御相伴衆になっていたかもしれません。
いずれにせよ、美濃と尾張で争う二人は、この上洛という政治行動でも張り合っていたことになります。
正直、信長の京都見学にしか思っていなかったこの上洛に、このような話があったとはと驚いています。

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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2009.11.30 Mon 23:53
カテゴリ: 講座・講演
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