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「信長公記を読み解く」第2回 

桐野作人氏の講座「信長公記を読み解く」に行ってきました。

今回は、信秀の没年の比定や斎藤道三との聖徳寺会見などが中心でした。
信秀の没年については、天文十八年(1549)、天文二十年、天文二十一年説などがあります。
月日については三月三日とはっきりしていていますが(信長公記)、没年は書かれていません。
一次史料である信長や弟信勝の書状(半物:年次がある)と書状内の信秀についての呼び名(生前は備後守、死後は法号桃巌)で推測されています。
一次史料の使い方になるほどです。

道三の下剋上は、司馬遼太郎氏の国盗り物語で知られています。
さらに近年の研究で実際には道三一人ではなく父子二代によるものだとわかってきました。
では、実際にどの史料からなのか、と思っていましたが、それが六角承禎条書です。
これは永禄三年の七月の書状で、承禎が重臣たちに斎藤氏との婚姻を断った理由を説明するものです。
その中に、斎藤三代(新左衛門・道三父、道三、義龍)の悪行を述べ、そんなところと縁組はできんと書いてあります。
確かに、こんなところと縁組はできんなと思わせる所業です(笑)。
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テーマ: 物書きのひとりごと
ジャンル: 小説・文学

2009.08.29 Sat 19:45
カテゴリ: 講座・講演
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