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第8回『織田信長文書』を読み解く 

今回の講座は、永禄九年(1566)の信長の上洛計画とその頓挫についてです。

将軍を目指す足利義昭は、各地の大名に上洛を求めて工作を活発にします。
その中で信長がいち早く反応します。
結果、当時信長と抗争をしていた美濃の斉藤氏との間で、矢止め、和平工作が義昭によって行われます。ところが!
永禄九年閏八月十八日付の甲斐国某宛、氏家直元等連署状によれば
去月廿九日織上(織田上総介=信長)当国境目へ出張候
とあります。義昭の矢止めで和平したのに、信長は美濃へ兵をだしたわけです。斉藤氏側の宣伝(織田が悪い)かとも思うのですが、同月廿六日付足利義秋(義昭)御内書では、
就尾州矢止儀、人質事同心感悦処、信長乱入儀驚入候、雖然尚参洛之事対尾張守(信長)申遣之間、最善之筋目無相違様令馳走者可為神妙、猶信恵可申候也
と義昭側でも信長の行動に驚いています。と同時にまだ和平工作の続行、信長の上洛を諦めてません。また斉藤氏は人質についても前向きな返答を義昭にしていることには驚きです。どうしても、上洛話となると義昭と信長といった、二者の外交にばかり目がいきますが、なかなかその周囲の外交もまた興味深いものです。
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2017.03.09 Thu 23:53
カテゴリ: 講座・講演
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第7回『織田信長文書』を読み解く 

今回は花押です。

花押はまあ今でいうサインですね。
信長は永禄八年(1565)に花押を変えています。麟(麒麟キリンの麟)の字です。
これはこの年五月に時の将軍足利義輝が暗殺されたことが原因とされています。
政治的衝撃→花押の変化は分かるんですが、どうして麟の字なのか深く考えていませんでした。
これは麒麟という中国の想像上の動物、そこにあります。
麒麟は至治の世にしか現れないとされます。
信長は麟を花押にすることで、至治を目指す意志を示したと言えます。
これは天下布武の朱印、岐阜の改名に連なるものだったのです。
2017.02.01 Wed 23:20
カテゴリ: 講座・講演
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第6回『織田信長文書』を読み解く 

文書となると、やはり外交文書が一番の好物になります。

今回の題は、小牧山移転と上杉輝虎との交渉。後者の話に目がいきます(笑)。
織田信長の文書ではなく、上杉輝虎(謙信)の書状から。
永禄七年七月二日付河上伊豆守・同中務少補宛上杉輝虎書状
「本文省略
 追而織田信長江為音信使僧差遣候、路次中無相違様馳走頼入候、以上
宛名の河上伊豆守らは飛騨の大名恵麻輝盛の家臣です。
ちなみに本文は以前の事での礼を述べています。
この文章から分かることは、上杉と織田との連絡路として飛騨が選ばれていることです。
永禄七年(1564)では、まだ三国同盟が健在ですから南はすべて敵、西も越中影響力を及ぼしているもののゴタゴタしています。となると、勢力範囲の東越中から飛騨、美濃へと抜ける道が一番になります。逆に、信長は美濃とは戦争中なので友好関係の武田氏の信濃を通っていたのかな、とも思います。
使者がどのような道を通ったかを考えると、当時の道の物理的状況だけでなく政治的状況も見えてきて楽しいものです。
2016.12.27 Tue 00:02
カテゴリ: 講座・講演
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第5回『織田信長文書』を読み解く 

11月末から忙しくなっています。師走はやはり師走です(汗)。

信長の尾張時代の文書は、どうしても戦争や外交というよりコマゴマな文書がメインとなります。
となると、どうしても地味ーになります。
今回はこれだと書くことがありませんでした(大汗)。

2016.12.11 Sun 23:00
カテゴリ: 講座・講演
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第4回『織田信長文書』を読み解く 

書いたつもりでいた先月の講座の話です(汗)。
したつもりでしなかったことが他にもあり、汗をかく機会が多い今日この頃です。

今回は永禄二年の信長の上洛、そして桶狭間の戦いがメインです。
とはいえ、両者ともに信長公記の講座でダブる話なのが悲しいところ(笑)。
桶狭間については第4回続編、上洛については第5回にそれぞれ詳しく書いてます。

今回講座を受けていて思ったことは、少数で大軍を破り、しかも今川義元の首を取ったわりには信長は戦果を誇示していないな。
これだけの起死回生の大戦果をあげれば、隣国諸方に書状をばらまきたくなると思うのですが、どうなのでしょうか。
のちに越前一向一揆を撃破した際や長篠の戦いで武田軍を破った時には、鼻高々な書状を送っていたのに。憎悪の敵だからなのか、単に書状を書かないといけない距離があるからなのか、さて。どうしてでしょう?
2016.11.16 Wed 20:54
カテゴリ: 講座・講演
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