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佐藤大輔氏の遠行の影響 または老後計画とE計画 

3月下旬の佐藤大輔氏(以下、御大)の遠行の影響は大きかった。

仕事が手につかない、ぼーっとしている、とかは全然ないんです。
ただ北米大陸やカリブ海での日独対決、宇宙大国日本の隕石の軌道迎撃作戦、三州公の突撃、皇国の運命、連邦の旗、その結末を見ることはできない。
新刊続刊をほとんど諦めていたとはいえ、作者が亡くなって100%読むことができなくなるのでは、やはりずっしりとくるものがあります。下手に新刊を4冊残して逝ってしまったとなればなおさらです。
喪失感というか、失望感というか、飢餓感というか。
そうですね、飢餓感が一番しっくりくるのかな。
この餓えを、この渇きをどうすればいいのか、と。
グダグダと書き連ねたいところです。

・・・とまあ、これは御大のファンとしての心情になります。

自主出版を考えてのE計画は、本業のワラジが忙しく手がつかない状況です。
如水後、長宗我部元親のIF物を考えていました。
本能寺の変をちょこちょこいじって、元親vs信長です。しかし、どーもうまくしっくりこない、最初のつかみが掴めませんでした。どうしたものかと考え、いろいろほかのIFを考えたりもしました。
そのうち本業のワラジが忙しくなって手が付かなくなりました。
私にとっての小説とはなんぞや、っと哲学的に考えたり、老後の趣味になるのかー、あるいはほんの少しずつでも書いていくか、なんてものおもいにふけったものです。

そんな時にですよ。
御大の死は。

ブログで書いたかもしれませんが、私が初めて小説に手をつけたのは中学3年の時でした。
田中芳樹氏のアルスラーン戦記の続刊、いつになったら出るんだー、と書店の新刊案内を眺めたものです。今みたいにインターネットでサクッと分かる時代じゃありませんからね。本当良い時代になった(齢の流れ・・・)。
そんな時に同級生(彼はロードス島戦記が好きでした)と小説書くか―、って話になり、書いたのが始まりです。

御大の続刊は望めません。
ならば、自分の手で餓えを満たし、渇きを癒すしかありません。
中学3年の時の自分と同じように。

なにより御大は52才で逝ってしまいました。
そこで考えてしまうのは、自分が52才までに何が書けるのか、どれだけ書けるのか、ってことです。

気張りたいと思います。
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2017.05.11 Thu 20:44
カテゴリ: 雑記
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さよなら青春 

訃報を知る。

佐藤大輔氏を知ったのは、レッドサンブラッククロスの1巻でした。
名前の格好よさ、太平洋戦争とは違う架空世界の日独決戦。氏の作品にのめりこみました。
皇国の1巻2巻同時刊行にはとても興奮したのを覚えています。
ノベルズの帯にある来月刊行案内に、続刊があるかどうかを調べて、
なければ落胆し、あれば待ち遠しくしていました。

新刊がでなくなり、文庫化ばかりで新刊を諦めていました。
でも、今月の文庫本に新刊案内があって嬉しく思っていました。


ご冥福をお祈ります。
今日ばかりは飲めない酒を飲みたい。

さよなら大ちゃん。


2017.03.26 Sun 19:59
カテゴリ: 雑記
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第8回『織田信長文書』を読み解く 

今回の講座は、永禄九年(1566)の信長の上洛計画とその頓挫についてです。

将軍を目指す足利義昭は、各地の大名に上洛を求めて工作を活発にします。
その中で信長がいち早く反応します。
結果、当時信長と抗争をしていた美濃の斉藤氏との間で、矢止め、和平工作が義昭によって行われます。ところが!
永禄九年閏八月十八日付の甲斐国某宛、氏家直元等連署状によれば
去月廿九日織上(織田上総介=信長)当国境目へ出張候
とあります。義昭の矢止めで和平したのに、信長は美濃へ兵をだしたわけです。斉藤氏側の宣伝(織田が悪い)かとも思うのですが、同月廿六日付足利義秋(義昭)御内書では、
就尾州矢止儀、人質事同心感悦処、信長乱入儀驚入候、雖然尚参洛之事対尾張守(信長)申遣之間、最善之筋目無相違様令馳走者可為神妙、猶信恵可申候也
と義昭側でも信長の行動に驚いています。と同時にまだ和平工作の続行、信長の上洛を諦めてません。また斉藤氏は人質についても前向きな返答を義昭にしていることには驚きです。どうしても、上洛話となると義昭と信長といった、二者の外交にばかり目がいきますが、なかなかその周囲の外交もまた興味深いものです。
2017.03.09 Thu 23:53
カテゴリ: 講座・講演
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第4回三国志徒然列伝 呉景 

呉景は孫策の江南制覇の生き証人であり、その子孫は呉の内紛の生き証人です。

呉景は義兄の孫堅に従い、戦功をあげています。
孫堅の死後、孫堅の軍団は袁術の指揮下に吸収されます。呉景も袁術配下の将となります。
そもそも袁術は洛陽の南、荊州北部の南陽郡を拠点にしていましたが、曹操との戦いに敗れて揚州寿春に逃れ、江南に勢力を広げようとしました。
これが孫家の江南制圧の始まりです。呉景は長江南岸の丹陽郡太守に任じられます。丹陽は長江下流域の南岸に位置します。寿春の東南です。
ところが、丹陽郡にはすでに袁紹が任じた太守周昕(シュウキン)がいました。兄弟とも従兄弟ともいわれる袁紹と袁術は、反董卓連合軍が崩壊したあと、反目から対立、抗争へと関係が悪化していました。

ここから呉景は八面六臂の活躍をします。
周昕を討伐して丹陽郡を支配下におさめる。
涇県の祖朗の反乱を孫策の兵、孫河と呂範とともに鎮圧。
揚州刺史として劉繇(リュウヨウ)が来ると、一時袁術のもとに退きますが、
横江にて樊能(ハンノウ)と于麋(ウビ)を孫賁と協力して討伐。
秣陵にて笮融(サクユウ)と薛礼(セツレイ)を攻撃。
この頃、孫策が負傷したことで軍門に下っていた者たちが反旗を翻すも、呉景はこれを鎮圧。
曲阿の劉繇を討伐。劉繇は豫章に敗走。

呉景は孫策の軍団にあって、一手の大将として動いています。
孫策は江南攻略の報告のため、呉景と孫賁を寿春に送ります。当時の袁術は徐州の劉備と争っていたため、呉景を広陵太守に任じて送り出します。広陵は長江北岸、徐州の南に位置します。
ここまで孫策はあくまで袁術配下の将として行動してきましたが、袁術が皇帝を名乗ることで状況が変わります。
孫策は袁術に諫言します。しかし、袁術の意志に変わりはないと判断すると、関係を断ち、袁術から独立します。
呉景も広陵太守の地位を捨て、孫策のもとに走ります。孫策は呉景を再び丹陽太守に任じます。
丹陽太守在任のまま、呉景は建安八年(203)に亡くなります。
孫堅・孫策の時代、共に駆け抜けた人生と言えるでしょう。
いわば孫家の陽の部分です。

ここから陰の部分です。
呉景の兵はその子呉奮が受け継ぎ、部将となり、爵位も与えられ、亡くなります。まだ安らかです。
その子の呉安が後を継ぎますが、彼は魯王孫覇の一党だったため、処刑されます。
皇太子孫和と魯王孫覇による後継者争い、二宮の変の犠牲者のひとりです。
呉安の後は呉奮の弟の呉祺(ゴキ)が継ぎます。
呉祺の死後は呉簒(ゴサン)が継ぎます。この呉簒の妻が滕胤(トウイン)の娘だったため、滕胤粛清に連座して呉簒も処刑されてしまいます。孫権の後を継いだのは幼い末子孫亮でしたが、権力争いが頻発します。滕胤粛清もそのひとつで、これまた犠牲者のひとりです。

孫権晩年からその後継者の時代の話はもう乾いた笑いが何度も起きるほどです。
2017.02.23 Thu 20:48
カテゴリ: 三国志
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第7回『織田信長文書』を読み解く 

今回は花押です。

花押はまあ今でいうサインですね。
信長は永禄八年(1565)に花押を変えています。麟(麒麟キリンの麟)の字です。
これはこの年五月に時の将軍足利義輝が暗殺されたことが原因とされています。
政治的衝撃→花押の変化は分かるんですが、どうして麟の字なのか深く考えていませんでした。
これは麒麟という中国の想像上の動物、そこにあります。
麒麟は至治の世にしか現れないとされます。
信長は麟を花押にすることで、至治を目指す意志を示したと言えます。
これは天下布武の朱印、岐阜の改名に連なるものだったのです。
2017.02.01 Wed 23:20
カテゴリ: 講座・講演
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