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第4回三国志徒然列伝 呉景 

呉景は孫策の江南制覇の生き証人であり、その子孫は呉の内紛の生き証人です。

呉景は義兄の孫堅に従い、戦功をあげています。
孫堅の死後、孫堅の軍団は袁術の指揮下に吸収されます。呉景も袁術配下の将となります。
そもそも袁術は洛陽の南、荊州北部の南陽郡を拠点にしていましたが、曹操との戦いに敗れて揚州寿春に逃れ、江南に勢力を広げようとしました。
これが孫家の江南制圧の始まりです。呉景は長江南岸の丹陽郡太守に任じられます。丹陽は長江下流域の南岸に位置します。寿春の東南です。
ところが、丹陽郡にはすでに袁紹が任じた太守周昕(シュウキン)がいました。兄弟とも従兄弟ともいわれる袁紹と袁術は、反董卓連合軍が崩壊したあと、反目から対立、抗争へと関係が悪化していました。

ここから呉景は八面六臂の活躍をします。
周昕を討伐して丹陽郡を支配下におさめる。
涇県の祖朗の反乱を孫策の兵、孫河と呂範とともに鎮圧。
揚州刺史として劉繇(リュウヨウ)が来ると、一時袁術のもとに退きますが、
横江にて樊能(ハンノウ)と于麋(ウビ)を孫賁と協力して討伐。
秣陵にて笮融(サクユウ)と薛礼(セツレイ)を攻撃。
この頃、孫策が負傷したことで軍門に下っていた者たちが反旗を翻すも、呉景はこれを鎮圧。
曲阿の劉繇を討伐。劉繇は豫章に敗走。

呉景は孫策の軍団にあって、一手の大将として動いています。
孫策は江南攻略の報告のため、呉景と孫賁を寿春に送ります。当時の袁術は徐州の劉備と争っていたため、呉景を広陵太守に任じて送り出します。広陵は長江北岸、徐州の南に位置します。
ここまで孫策はあくまで袁術配下の将として行動してきましたが、袁術が皇帝を名乗ることで状況が変わります。
孫策は袁術に諫言します。しかし、袁術の意志に変わりはないと判断すると、関係を断ち、袁術から独立します。
呉景も広陵太守の地位を捨て、孫策のもとに走ります。孫策は呉景を再び丹陽太守に任じます。
丹陽太守在任のまま、呉景は建安八年(203)に亡くなります。
孫堅・孫策の時代、共に駆け抜けた人生と言えるでしょう。
いわば孫家の陽の部分です。

ここから陰の部分です。
呉景の兵はその子呉奮が受け継ぎ、部将となり、爵位も与えられ、亡くなります。まだ安らかです。
その子の呉安が後を継ぎますが、彼は魯王孫覇の一党だったため、処刑されます。
皇太子孫和と魯王孫覇による後継者争い、二宮の変の犠牲者のひとりです。
呉安の後は呉奮の弟の呉祺(ゴキ)が継ぎます。
呉祺の死後は呉簒(ゴサン)が継ぎます。この呉簒の妻が滕胤(トウイン)の娘だったため、滕胤粛清に連座して呉簒も処刑されてしまいます。孫権の後を継いだのは幼い末子孫亮でしたが、権力争いが頻発します。滕胤粛清もそのひとつで、これまた犠牲者のひとりです。

孫権晩年からその後継者の時代の話はもう乾いた笑いが何度も起きるほどです。
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2017.02.23 Thu 20:48
カテゴリ: 三国志
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第7回『織田信長文書』を読み解く 

今回は花押です。

花押はまあ今でいうサインですね。
信長は永禄八年(1565)に花押を変えています。麟(麒麟キリンの麟)の字です。
これはこの年五月に時の将軍足利義輝が暗殺されたことが原因とされています。
政治的衝撃→花押の変化は分かるんですが、どうして麟の字なのか深く考えていませんでした。
これは麒麟という中国の想像上の動物、そこにあります。
麒麟は至治の世にしか現れないとされます。
信長は麟を花押にすることで、至治を目指す意志を示したと言えます。
これは天下布武の朱印、岐阜の改名に連なるものだったのです。
2017.02.01 Wed 23:20
カテゴリ: 講座・講演
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第3回三国志徒然列伝 呉夫人 

久しぶりの三国志徒然列伝です(大汗)。

今回は呉夫人について。
孫堅の奥さんで、孫策・孫権らの母親にあたります。
呉の生まれでのちに銭唐の地に移ります。早くに父母を亡くし、弟の呉景と暮らしていました。
孫堅伝には、孫堅の武勇伝として十七歳の時の海賊退治の話があります。
父親とともに船で向かっていたのがこの銭唐でした。
孫堅は才色兼備で名高い呉夫人に求婚しますが、風聞悪い孫堅を親戚が嫌い、断ろうとします。これに孫堅は怒りますが、呉夫人は女一人のことで恨みを買う必要はない、と求婚を受け入れます。
そして四男一女を生むことになります。
伝では建安七年(202)に亡くなるのですが、建安十二年に亡くなったと注を書いた裴松之は断言しています。
ちなみに孫堅が初平四年(193)に37歳で亡くなったとあるので、同年代と考えて50歳前後で亡くなったのかなと思います。

呉夫人の逸話として、孫策への諫言があります。
孫策が江南を制覇した頃、魏謄という家臣が孫策の気持ちに逆らったため処刑されかけます。他の者たちは心配しますが、恐れてなにもできずにいました。
その話を聞いた呉夫人は井戸の縁に身を置くと、
「江南の経営を始めたばかりで人物を礼遇しなければならない。それなのに職務に励む魏謄殿を殺せば、明日には皆が背を向けることになる。禍がお前に降りかかるのは見たくない。その前に井戸に身を投げる」
と、まあ脅迫したわけです(笑)。
これは小覇王と呼ばれた孫策も勝てず、魏謄を釈放しました。
孫策亡き後、若くして継いだ孫権にも、助言をし、その益は大きかったとあります。少しきになるのは、行政はともかく軍事にも助言したとあることです。さて、これは?

次回は、呉夫人の弟の呉景について。この人とその子孫の話は、まあ、あれですね。
2017.01.20 Fri 00:10
カテゴリ: 三国志
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謹賀新年2017 

明けましておめでとうございます。

今年は積読本をなんとか消化したいと思っています。
古本祭のたびに10冊15冊と増えるのに減るのは・・・。
2017.01.01 Sun 21:31
カテゴリ: 雑記
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第6回『織田信長文書』を読み解く 

文書となると、やはり外交文書が一番の好物になります。

今回の題は、小牧山移転と上杉輝虎との交渉。後者の話に目がいきます(笑)。
織田信長の文書ではなく、上杉輝虎(謙信)の書状から。
永禄七年七月二日付河上伊豆守・同中務少補宛上杉輝虎書状
「本文省略
 追而織田信長江為音信使僧差遣候、路次中無相違様馳走頼入候、以上
宛名の河上伊豆守らは飛騨の大名恵麻輝盛の家臣です。
ちなみに本文は以前の事での礼を述べています。
この文章から分かることは、上杉と織田との連絡路として飛騨が選ばれていることです。
永禄七年(1564)では、まだ三国同盟が健在ですから南はすべて敵、西も越中影響力を及ぼしているもののゴタゴタしています。となると、勢力範囲の東越中から飛騨、美濃へと抜ける道が一番になります。逆に、信長は美濃とは戦争中なので友好関係の武田氏の信濃を通っていたのかな、とも思います。
使者がどのような道を通ったかを考えると、当時の道の物理的状況だけでなく政治的状況も見えてきて楽しいものです。
2016.12.27 Tue 00:02
カテゴリ: 講座・講演
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